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きたか!? 更年期
Posted on April 19, 2019 Leave a Comment
なんだかちょっと気分が上がらないことが多い。不必要にメランコリック。なんだなんだどうしたんだ、この間までハッピーである秘訣を習得できたつもりでいたのに。 ところが今日になってふと思った。これはもしや世に言われる更年期ってやつじゃないか? もしかしたらそうかも。認めたくないけどそうかも。そう思ったらほっとしたので、そう思うことにした。 そう。本当に更年期かどうかはいまはよくて、まずはそう思ったらほっとしたということがキーで、ほっとする思考を選んだということがポイント。 ほっとしたということは、自分の中のエネルギーが流れている状態。だから、ほっとした思考を選ぶことは、抵抗から流れるほうへエネルギーの方向を変えたってこと。 どう思ったらほっとするかは人によるのだと思う。わたしの場合、原因がわからない、つまり対処の仕方がわからないということが不安を増大するので、「あ、なんだ、ホルモン関係か」とわかることで、ほっとする。ホルモンが原因なら、なにをやればいいかわかるからだ。 自分の中で、更年期だって受け入れることにしたことで、「じゃあもっともっと自分の心身にやさしくなって、本当にやりたいことだけやろう」と思えた。 そして、気づいた。「いまでも十分やさしくしていて、やりたいことばっかやっているじゃん、これ以上どれだけ自分を甘やかすの」という自分の中の声に対抗するのに、言い訳が必要だったんだって。 自分がそう思っているから、人にもそう思われやしないかと不安で、人にも「いやいや更年期だからごめんね」と言えるような状況を自分で作ろうとしていたっぽい。 本来は、言い訳なくても自分のしたいようにすればいいのだけどね。それができないから、更年期を使っているってことね。 でも、いいと思う。わたしを幸せにするために使える言い訳ならとりあえず使えばいい。いつか、幸せにするためだったはずの言い訳が自分を幸せにしていないことになったとき、また新しいステージが開けるのだから、深く考えないでいまはいまのベストを選べばいい。 わたしに使命があるとしたら、一瞬一瞬、いま「わたしの本当」(つまり幸せ)を生きることだと信じている。
気分の変え方
Posted on April 18, 2019 Leave a Comment
相方と暮らしているが、彼が「今日は遅くなるから夜ごはんはいらない」という日はちょっとしたパラダイスである。料理しなくていい! 自分の好きなものを遠慮なく食べられる! したいこと気兼ねなくできる! 面白いのだけど、これがサマータイム以前だと、ここまでパラダイス感はなかった。というのも、冬は会社から帰る時刻にはもう暗く、家ももちろん真っ暗で静かで、一人相方の帰りを待つ時間は、自由と同時にひとりぼっちという孤独も感じて、どことなく心細かったのだ。 しかし、今は夏時間だ。外は8時くらいまで明るい。同じ状況でも、外が明るいとパラダイスになり、外が暗いと孤独を感じるんだから、我ながら面白いなぁ。 気分ってそんな感じで、意外と単純なもので、自分の内側を覗き込んで対峙するより、外側の助けを借りる方が手っ取り早いことが往々にしてある。 仕事でも、プライベートでも、うじうじと考えてしまって結論が出せない…そういうときは、日光に当たるとか、睡眠をよく取るとか、栄養の質が高いものを食べるとか、そういうことを見直してみるようにしている。 外側を変えたらすぐ悩みになっていた状況が解消されるかといえば、そうでもないのだけど、そもそも悩む必要はなかったということがすとんとわかったりするんだよね。
夢の記録
Posted on April 13, 2019 Leave a Comment
亡くなった夫の誕生日が近い。それと関係あるのかないのか、亡夫の夢を見た。 亡くなった直後は彼はほとんど夢に出てこず、ようやく出てきてくれるようになったかと思うと亡くなる直前の痩せた姿だったりした(もちろんそうじゃないときもあった)。あるいは、わたしは夫のいない生活をしていたけれど、実は彼は病院に閉じ込められっぱなしになっていて、わたしが忘れていただけと気づく、ちょっとした悪夢。 3、4年経つと元気な姿を見ることが増えたが、その場合、夢の中でわたしは「亡くなった彼が今何らかの事情で戻ってきている」と認識していて、「彼がそのことに気づいて消えてしまわないように」と気をつけていることが多くて全力で無邪気に彼と会っていることは少なかった。 まあ、たまたま、そういう夢ばかり記憶に残っている可能性もあるけれど。 今回見たのはこんな夢。 わたしは温泉宿にいるようで、早朝、一人で露天風呂を楽しんでいた。けれど、合宿できているらしい大学生っぽい団体がどかどかやってきて(混浴!)、落ち着かなくなったので露天風呂の奥の方へと移動した。 そこの風呂には中心に人の輪ができていて、何だろうと思ったら、うずしおのうずのようなものがあって、人々がそこで遊んでいるのだった。 そして、そのとき、うずしおの中心で遊んでいたのは、亡くなった夫と、彼の息子(前妻との間)であった。 予期せぬ再会がうれしくて、声をかけたかったのだが、うずまきの周りには他にも人がいて、周りが気になって大声が出せない。亡夫と息子くんはうずしおに夢中で、人の輪の一番外側にいるわたしに気づくはずもない。 ようやく勇気を出して声を出してみたのだが、なんとわたしの口から飛び出したのは息子くんの方の名前。しかも、本名でしっかり呼ばず、なんとなく勝手に略してニックネームにしてた。 何やっているんだ、私…もちろん、その声は人のざわめきにかき消されて夫には届かなかった、というところで目が覚めた。 彼は黄色いTシャツを着ていた(温泉なのに洋服を着ているという不思議は夢だからしょうがない)。その黄色いTシャツは、わたしと知り合った頃からいつも着ていたものだけど、彼が亡くなって、彼の古い友だちが見せてくれた写真の中でも同じTシャツを着ていたことに驚いた。大学生のときから愛用していたみたい。なんという物持ちの良さ。 結局、声は届かず、会話はできなかったのだけど、黒く焼けた顔に黄色のTシャツ、そしてうずしおではしゃいでいる笑顔を見られて、うれしかった。 あまりにうれしかったので、目が覚めた後、もう一回会えないかと思って二度寝したくらい。 二度寝ではわたしは彼の居場所をPCを駆使して探している夢を見た。 夢でも夫に会えるのはうれしくて、こうして記録を残しておきたくなる。わたしはきっとずっと彼のことが好き。
闇を認めて、光を見る
Posted on April 12, 2019 Leave a Comment
野村訓市さんのファンなのだが、彼が誕生日に投稿したInstagramのポストが素晴らしくて、またさらに好きになった。 “thank you for your birthday mails. Now I’m 46, who said that age is just a number? My back is aching and I can’t bend my knees. But we can still drink and have fun” 僭越ながら要約すると、「誕生日のメッセージありがとう。46歳になったけど、年齢はただの数字に過ぎないなんて言ったの誰だ? 背中はいてーし、ヒザ曲げられねーぞ。でも、まあそんなんでもまだ飲めるし、楽しめるね」。 年齢はただの数字。よく聞く言葉で、実際そうだと思ってもいるのだけど、一方でやっぱり年を重ねるなりの心や体の変化はあって、それを受け入れないで「年齢はただの数字だから気にしない」というのはちょっとカラ元気というか、無理があるなぁとも常々思っている。 闇の存在を否定して光だけしか見ないんじゃなくて、闇があることは認めて、その上で光を見る。そのスタンスが「背中は痛いし、ヒザは曲げられないけど、まあ、それでも飲めるし楽しめる」という言葉に表れていて、好きだなぁと思ったのだ。 わたしは日本人である。今年で45歳になる。できるようになりたいと思ってできるようになったこともあれば、できていないこともある。この先、別にできなくてもいいなと思うこともあれば、できるようになりたいと思い続けていることもある。若い頃にはできたのに、今はできなくなったこともありそうだ。いいところもあるし、あんまり好ましく思っていないところもある。 そういう今の自分をいったん全部受け入れてみる。 受け入れているつもりでいて、じつはカラ元気や無理になっていないか。気づいたときに時々見直してみるとよさそうだ。
【本】『魔法をかける編集』
Posted on April 11, 2019 Leave a Comment
眠る前に読み始めて、結局、そのまま読破してしまう本には久しぶりに出会った。編集者、藤本智士さんの著書『魔法をかける編集』。 なんとなく感じていて、なんとなく思っていて、でも、明確に言葉にできなかった自分の思いが全部ここに入っていた。 まず、藤本さんは本の中で編集力とは「メディアを活用して状況を変化させるチカラ」と定義している。何かを作ることよりも、それを作ることで世界がどう変化するかの方が大事だと。 同時に、「メディア(媒体)」というのはこれまで言われてきたメディア(テレビや新聞、雑誌やインターネット)だけではないと彼は言う。たとえば、わたし個人だって媒体であるし、街や商品だって媒体である。 どういう風に世界を変化させたいのかのビジョンがあって、それを実現するために「メディア(媒体)」を活用することが編集である。だから、編集は手段であって、目的ではない。 この理論でいうと、たとえば、「これが流行っていますよー」と話題の情報を束ねただけの媒体だったり、何でもいいから注目を集めてバズを起こして視聴率やPVを稼ぐというような媒体は、編集したとは言えない。 「こういうものを作りたい!」という思いだけで作るものが続かないのは、作ること(編集)を目的にしてしまっていて、その先に何をどう変えたいのかのビジョンがないからだ。 とにもかくにも、書かれている内容に、うんうんと頷きまくり。でも、わたしは既存媒体に感じる違和感のおおもとを言葉にするほど整理できなくて、結果、既存媒体のルールで働き続けてきたから、最初から違和感を抱いて独自の道を進んできた藤本さんはすごい。 これを読んだおかげで堂々と言えるようになったけど、わたし自身、正直にいうと、雑誌の誌面を作ることそのものには、そこまで思い入れがないのだ。適切な方法であればいいだけで、雑誌でなくてもいいし、他の媒体でもいい。それどころか、たとえばリトリートの企画とか、そういうのでももいいというか、そういうのにも興味がある。 そんな感じで、四方八方に広がる自分の興味を、一言でくくれなくて、はて一体自分は肩書きでいったら何になりたいんだろうとよくわからなかったのだけど、その先のビジョンというのは一貫してあるから、堂々と編集者と名乗っていいかもしれない(本の中では「勇者」とも表現されているけれども)。 いろんなジャンルに興味があって手を出したがるのは、社会の何をどう変えたいかというビジョンを実現する手段をいっぱい思いついているというだけのことで、なんら問題なかったんだと思えたことがこの本を読んだ一番の収穫。 あ、でも、思いついているだけでは、編集の仕事になっていませんな。アメリカにきたおかげでずいぶん図太くなれたので、前は自分にはとても無理と思えたことも挑戦できそうな気がする。動けることから動きたいなぁと思い始めた2019年。
痛みの正体
Posted on April 10, 2019 Leave a Comment
「川尻先生!ホリスティックヘルスって何ですか?」の第6回を更新しました。テーマは「痛みの正体」。 「体のどこかが痛いことと、その場所に問題があることは、関係がない」という考え方は、頭で理解したつもりでも、本当に理解して受け入れるのがなかなか難しいです。でも、川尻先生のお話をうかがってからは、意識的にそのような見方をして暮らしています。そうすると、少しずつ「確かにそうだなぁ」と納得できてきます。 たとえば昨日、わたしはなんとなく頭が重かった。これまでも疲れるとわりと頭痛に出ることが多くて、たいていの場合、一眠りすれば治るのだけど、仕事があったのでそういうわけにもいきませんでした。 ただ、ありがたいことにそれぞれの仕事の優先順位は好きに決められるくらいの状況であったので、やらなきゃいけないことよりも、自分がちょっと楽しい仕事を優先することにしました。 具体的には自分のペースで外を周り、写真を撮る仕事。朝のうちに済ませて昼間は前から行ってみたかった海辺のカフェで一息入れました。 この時点でわたしの頭の重たさは少し改善されていました。脳の中のスレッド(生命の脅威、つまりストレス)が増えると痛みが出て、それが減ると痛みは減るという川尻先生の話はやっぱりその通りだなぁと感じたところで、もう一つ不思議というか面白い出来事がありました。 そのカフェにはリーシュにつながれていない看板犬(ゴールデンリトリーバーの老犬)がいて、店内の好きなところで寝ているのですが、そのワンちゃんがわたしのところにやってきて挨拶をして(顔を撫でてと鼻を突き出してくる)、その後、わたしの足元に寝そべったのです。 その瞬間、日本にいる愛犬(ラブラドール10歳)を思い出して、懐かしくてちょっと泣けました。そして、思わぬ心の奥の本音が出てきたのです。 その本音とは、「わたし、本当は、日本が恋しい。カリフォルニアで暮らしていくことは不安が多くて心細い」。 何が不思議で面白かったかというと、この後、頭痛がぴたりと治ったことです。 自分では、聞いていなかった心の声を聞いたことが関係しているんじゃないかと思いました。 もちろん、心の本音が聞こえたから、じゃあ日本に帰るかというとまたこれは別の話。ポイントは、カリフォルニアで暮らす決意をするのは変わらないとしても、本音を覆い隠して「カリフォルニアが楽しいからここにいると決めた」というのと、本音を受け入れて「不安で心細くて日本が恋しいけれど、でもカリフォルニアでも楽しむと決めた」というのでは違うということですね。 前者だと自分への嘘になる。後者だと、自分の本音を受け入れてなお自分で決めている。同じ決意をするのでも、自分に嘘があるのと、自分の本音を受け入れた上で決断するのとではそれこそバイブレーションが違うのだと思います。 何か望まない状況があった場合、そこで前向きな思考ができることが理想ですが、望まないのに望んでいると思うとそこにはバイブレーションのずれが生じてしまいます(それを「抵抗」のエネルギーとも言える)。望まない状況であることは受け入れて、それはそれで、でもその上でこの状況を楽しむと決める。小さな違いだけど、けっこう大事なポイントだと思います。 わたしのこの文章は川尻先生のブログの第6回の内容とはだいぶ違う内容になりましたが、こちらも面白いのでぜひご一読ください!
アメリカ人はフレンドリーなわけじゃなかった!?
Posted on April 4, 2019 Leave a Comment
アメリカ、特にカリフォルニアにいると、近くにいる人が突然話しかけてくることはしょっちゅうある。 そんなわけでずっと「アメリカ人は明るくてフレンドリーだ」などと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。 というのも、最近、アメリカ人2人から同じ話を聞いたのだ。見知らぬ者同士が至近距離にいるのに何も話さないのは気まずいと。だから話しかけるのだと。 気まずいから話しかけるというのは考え方によってはもちろんフレンドリーということだけど、わたしが思っていたような「陽気で開放的」というのとは違ったわけだ。彼・彼女らは、友好的な姿勢を見せることによって気まずさを打ち破っていたとは、考えもしなかったなぁ。 わたしなんかは見知らぬ人に突然話しかけるほうが気まずく感じるのだが、他の日本人はどうなんだろう。 東洋にはない、西洋のハグという行為も、親愛の表現という以前に、「敵意がないことを示すためにやる」と考えると、見え方が変わってきそうだ。 物事について360度全方位から見ることを心がけたとしても、そもそもどこの立ち位置から360度見たかで、見えるものは違う。もっといえば左右の360度だけじゃなくて、前後の360度だってある。 その全てから見ることは難しいし、その必要もない気がするけれど、それくらいたくさんの視点が世界に存在していることは覚えておくほうが、生きるのは楽しそうだ。可能性は無限大って思えるし、何より誰かと違うからって、別にそれが間違っているっていうわけじゃないと自信を持てる。
どうしたって日本人
Posted on April 3, 2019 Leave a Comment
思いがけない出会いがあって、にわかにTai Chi、太極拳にハマっている。 クラスに通うようになって気がついたことがひとつある。それは、東洋の思想なり伝統なりをベースにした場は自分にとってひどく居心地がよいということだ。 居心地がいいのは、東洋の思想なり伝統なりは感覚的にわかるから、というだけではない。その場にいるのは、アメリカ人であれ、その他外国から来た人であれ、東洋の思想なり伝統なりに興味がある人で、リスペクトがある人だとわかるから、日本人の私は、日本人丸出しで、日本人らしくしていても受け入れられるという安心感があるのだ。 逆に言うと、これまで、アメリカという国になじもうと、アメリカ人たちの中に入ろうと、アメリカ文化に合わせようと、結構無理をしていたんだなと気づいたとも言える。 いや、なじもう、合わせようとするだけならいい。たぶん、どこかで「(アジア人だからって、日本人だからって)バカにされないようにしよう」という気持ちがあったんじゃないかな。だから、なじもう、合わせようというだけでなく、自分を隠して、違う自分になろうとしていた気がする。 前に出ることなく、隅の方でただニコニコしている、いい人そうだけど楽しんでいるんだかいないんだか、何を考えているんだかわからない気味の悪い日本人って思われたくなくてだいぶがんばっていた。 でも、昨日、太極拳のクラスの帰りに、ふと、「そんな私でいいじゃん」と思えた。静かで何を考えているかわからなくても、フレンドリーに自ら話しかけてくることはなくても、ちゃんと自分を持っている人であれば、それはそれでかっこいいじゃんと。 以前、取材させていただいた、アメリカで活躍する画家、藤田理麻さんの話を思い出した。幼い頃、ニューヨークで暮らして、友達がほしくて皆と同じようになりたくてがんばったのにどうしてもなじめなかったが、ある日「日本人であることは自分の資産なんだ」と気づいて日本人である自分を受け入れてふるまうようになったらむしろ友達がどんどんできたという話。 日本にいると日本人であることが当たり前でそんなこと考えもしなかったけれど。私がアメリカにいながらして日本人であることを心底受け入れたとき、また流れが変わり始めるんだろう。
やる気はなくていい
Posted on April 2, 2019 Leave a Comment
ここのところ、なんかやる気が出ないな〜と感じていて、どうしたらやる気が出るのかな〜と本やネットを読みあさって模索していたところ、「そもそもやる気って、なくっちゃいけないの?」という一文に出会い、はっと我に返った。 取り組んでいる物事、すべてをやる気満々でできたら最高で、そうなるのが理想だ。でも残念ながらまだそんな現実を生きられていない。その場合、目の前にある、いまいちやる気の出ない物事の中から何かときめき要素を見つけて、やる気を引き出そうというのはかなり難しい。 わたしの体験からすると、こういうときに大事なのは、やる気の出ない物事はとりあえず「それはそれ」と割り切って必要最低限の労力でこなすこと。そして、他にやる気を感じる物事に携わる時間を捻出して、そっちを実行すること。 やる気を感じる物事を実行と言ってもそんな大げさなことでなくていい。 たとえば、ちょっと寝たいなら、寝たいのがやる気。だから寝る時間を作る。ダラダラしたいなら、ダラダラしたいことにやる気があるのだ。ダラダラする時間を作ればいい。 それをやっていると、自分の振動が前向きに変わるから、その時点で、先ほどのあんまりやる気の出なかった物事に再度取り組むと、先ほどはなかった視点が出てきて、少しはマシな気持ちで取り組めたりする。もしくは、やっぱりそのことに関してやる気は出なかったとしても、他にやる気の出ることを満たしてあげているから、そのひとつのことにやる気が出ないことくらい気にならなくなる。 サーフィンとか、これまでやる気いっぱいだったことへの情熱も少し落ち着いてしまっている。まあ、好きだから続けることはかわらないけれど。 要は、アメリカ暮らしにも慣れて、新しい刺激が減って、飽きたというか退屈を感じるようになったってことだろう。 逆に考えれば、次のステージのはじまり。 この4月はとにかくたくさん新しいことに顔を突っ込む月間にしよう。
人生2回目のオペラ鑑賞
Posted on March 29, 2019 Leave a Comment
2月にサンディエゴオペラの『リゴレット』公演を鑑賞した(そのときの投稿はこちら)。オペラ鑑賞は人生初だったのだが、これまで観た舞台芸術の中で一番感動したといって過言でなく、単純なわたしは今後もオペラを可能な限り鑑賞することを心に決めて、趣味に「オペラ鑑賞」を追加した。 今回は人生2回目。またもサンディエゴオペラ。演目は『カルメン』。 正直に言うと『リゴレット』を観たときほどの感動はなかったのだけど、2つのパフォーマンスを観たおかげで、自分が『リゴレット』のどこに惹かれたのかをちょっと語れるようになった。 『リゴレット』に惹かれた最大のポイントは、第3幕の有名な四重唱『美しい愛らしい娘よ』。 家の敷居の中にいる2人と、外にいる2人、つまり物語の中では互いにコミュニケーションを取る状況にない2組のやりとりを観客だけが同時に観られるのは映画などではなかなかない、舞台芸術ならではの演出のうえに、本来なら別々に会話をしているはずの2組のそれぞれのセリフ(歌)がどんどん重なり合ってテンポよく歌い上げていくまでの過程はオペラのことを何も知らなくても「これはすごい!」と鳥肌が立つほど圧巻であった。 もうひとつ惹かれたポイントは登場人物に感情移入しやすかったこと。 女好きのマントヴァ公は、確かに女好きでどうしようもない奴なんだけど、「ただ女の人が好きで仕方ない天然のおばかちゃん」のように描かれていたので可愛げがあるというか、本当には嫌いになれないし、そんなマントヴァ公に恋をするジルダはピュアでかわいらしい。観ているうちにキャラクターに理解なり共感なりを増していく作りになっていたので、その後の展開で「なんでそこでそんな行動を取るの!?」と興ざめすることがなかった。 どの『リゴレット』を観てもそうなのか、それともあのときのサンディエゴオペラの『リゴレット』がよかったのかをいつか知りたいところ。 『カルメン』はオペラとしての面白さはあったのだけど、鳥肌が立つような見せ場は今回は見つけられず、どの登場人物にもそこまで親近感を抱けなかった。だから、ほかの団体のもの、他のディレクター(や歌手)のものを観たらどう感じるかを知りたい。 というわけで、オペラ鑑賞にすっかりはまったことは変わらず。 歌、ダンス、演技、音楽(オーケストラ)、舞台装飾、衣装、すべての要素があって、それがまた細部まで綿密に、計算されて作り込まれていることがいいんだよなぁ。