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流していない涙

日本を離れて暮らしているために日本の物事に焦がれることはよくあるが、自然についていうと、春の桜と夏の蝉時雨がとりわけ恋しい。 今ぐらいの時期になると日本に暮らす友だちのFacebook投稿に桜がちらほら表れはじめて、わたしはひっそりとバーチャルに花見を楽しんでいる。 日本に帰って実際に花見をしたいなぁと思うこともあるのだが、一方で、桜を愛でることを考えるだけで胸が痛くもなる。夫と一緒に見た桜の思い出がたくさん出てくることだろうと想像すると、実際に桜を見られるような状況になくてよかったと思うのだ。 こういう風に文章で思い出す分にはいいのだけど、本当の風景の中に置かれたときに蘇る記憶は7年経った今でも生々しくて、瞬時に「あのとき」に意識が戻ってしまう。別に戻ってもいいのだけど、痛いのは嫌。 そう思うと、悲しさとか、寂しさの前には、きっと「痛み」があるんだな。それが言葉に置き換えられるレベルまで昇華すると、寂しいとか、腹が立つとかになるんだろう。 今でも、わたしの中にはきっと流していない涙があるんだろうと思う。まだ表に出せない痛み。それをどこかのタイミングで流す日が来るのかもしれない。来ないのかもしれない。 どっちでもいいな。痛みがあるからってしあわせでないわけじゃないし、しあわせになるためには痛みがあっちゃいけないわけじゃない。わたしが体験から感じたことはどんなものであれわたしの意識の層に織り込まれて、わたしを構成する成分になる、それだけのことのように思うのだ。

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ことばの重要性

前回書いたことの続き。「すべてはエネルギーである」という、わかっているつもりだったけど、その実、あんまりわかっていなかった言葉を、「すべては振動している」に置き換えたらするすると理解度が深まったことに、いまも興奮している。 「すべては振動している」と考えると、これまで精神世界の話でよく言われていたことがもっと具体的なイメージとして納得できるようになる。 たとえば、心の中の思いや考え、感情というのにも、それぞれの振動がある。一方で、体の外に出す言葉(声にしても文字にしても)にもそれぞれの振動がある。嫌いと感じているのに、好きという言葉を発すると、内側の振動と外側の振動が一致しなくて、脳が混乱する。これを続けていると心身のバランスを崩すんだろう。 自然から離れるほど人間は病気になる、というのは医学の父と言われるヒポクラテスの名言として知られるが、これも「すべては振動している」で考えたらクリアになった。 というのも、人間の肉体は地球由来のものだから、基本的には肉体は地球(自然)の振動と近いはずなのだ。自然にない振動の影響を多少受けても、時々、自然に返れば自然の振動と共振して、もとの地球由来の振動に戻れる。けれども、あまりに地球の自然から遠のくと自力で自然の振動に戻れなくなる。そうすると心身の不調和が起こるっていうことだろう。 話は急に変わるけれど、こういう風に言葉を置き換えるだけで目から鱗が落ちることはたくさんある。だから、職業的な物書きがいるのだろうし、自分はそういう風にわからないことを言葉に置き換えて理解していくことが好きなんだなぁと改めて気付いた。自分が理解したことは、人に伝えることができるものね。

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すべては振動している

友人がFacebookで、辻麻里子さんの遺作『藍の書』が発売されたことをシェアして、気になって速攻Amazon.co.jpで買ってしまった。 辻さんのその他の著書『22を超えてゆけ』などは元Happyちゃんことさちまるさんや友人たちのシェアで見かけたことはあったけど、その時は全然ピンとこなくて検索もしなかった。でも、自分のタイミングが来たのだろう。今回は気になりまくって、結果的にAmazon.co.jpでKindle版のUnlimited(読み放題)で読める辻さんの著書『22を超えてゆけ』『宇宙の羅針盤 上・下』を全部購読して、さっそく読みはじめて興奮中。 内容的にはちょっと難しいので「理解しようとしながら」読むとすぐに疲れてしまって休んじゃうのだけど、休んでいる間も気になって読みたくなる。で、また読むんだけどやっぱり眠たくなる、ということを繰り返す本は、ずいぶん前にはまった『奇跡のコース』(※私は後々に日本語版が出版される前、田中百合子さん訳で読んだ)や、いまも好きなアリス・ベイリーの秘教系の本、そしてパラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』以来だ。 今は『宇宙の羅針盤 上』を読み途中で、まだ読み終えていないのだけど、改めて大きく納得ができて自ら使える知恵として理解を進められたポイントが早くもひとつある。 それは、すべては振動しているということ。 あ、いまさら、そこ(笑)。 でも、たとえば「1」という数字にも特定の振動があるというのは、知識として知っていたつもりでも、知恵として使いこなせるレベルでは納得していなかったんだと思う。 かつてサヴァン症候群でアスペルガー症候群であるダニエル・タメットさんが、自身の著書『ぼくには数字が風景に見える』で、数字にはそれぞれの色があるから、違う色で表記されていると混乱するというようなことを書いていた。これもきっと、その数字の振動を色に置き換えたらこれになるというのがあるんだろうと理解したことを、改めて思い出した。 これでいうと石などに癒しのパワーがあることもなんら違和感ない。「癒しのパワー」とか言うから怪しくなるけれど、その鉱物が持つ特定の振動を、自分の体に近づけることで共振させて、その振動を自分に取り込むってだけのこと。 図形もまた然り。音楽ももちろんそう。 要するにすべては特定の振動を持っていて、それぞれ振動の幅や長さが違う。自分や環境を整えるのに必要な振動を自分に取り込んでいけばいいのだ。取り込むというのはつまり共振させればいい。 そういうのをまとめてスピリチュアル界隈では「波動を上げる」と言ったりするんだと思うけど、ずいぶんざっくりしていたから、これまでは疑いはしなくても理解としてはかなり感覚的だったんだな。辻さんの本を読んだらそれが左脳の知識と結びついた。 宇宙意識からのメッセージとかも、その発信元がスピリットだとか言うとイメージとして描きにくいんだけど、我々の目には見えないなんらかの特殊な振動がそこに発生していて、それを人によっては言葉に、人によっては映像に、人によっては色に置き換えて感知しているんだろうね。ただ、振動の形が違いすぎると感知さえできないってことだろう。 知識と感覚が結びつくと、意図を明確にして意識的にそのツールを使いこなせるようになる。感覚だけでは手探りで効果的に使えないし、知識だけだと使い方がわからないのだ。これからは知識と感覚を結びつけて、知性と感性の両方を駆使していくことが求めらていると思う。 このわたしの気づきで、わたしの振動はちょっと変わったから、きっと地球もちょっと変わる。風が吹けば桶屋が儲かる。すべてはつながっている。

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大きな流れは小さな風穴から

ほんとうにまあ、ぼんやりしていると、だいたいうっかり自分を見失っている。 この1週間ほど、元気はなくはないけど、なんとなく自分の中心に自分がいないというか、スカッとしないモヤモヤがあった。心の声をいろいろ聞くのだけど、やりたいことが出てこない。出てこないのでなんとなく流されていると不満はないけど、自分と繋がっているときの、明晰な、スカッとした、あの感覚がなくてちょっと苦しい…。 で、「やりたいことが出てこない」というのはわたしにはちょっとした黄色信号なのだ。これって、知らぬところで自分が拗ねはじめたときなの。心の声を聞く→それを行動にする、ということを両方していない、もしくはどちらか片方だけでもしないことが続いているという合図なのだ。「どうせやりたいって言ってもやらないじゃん」と。 こういうときは、もう「やりたいこと」を出すことは難しいので、「やりたくないこと」をあぶりだすことにしている。 もちろん、ずっと「やりたくないこと」について考えていたら、そっちにフォーカスがいってしまうので、「やりたくないこと」が出てきたら、じゃあ、「それについてはどうしたいか?」を考える。漠然と「何がやりたいか」だと出てこなくても、「これはいやだ」とポイントが出てくれば、「そのポイントについてはこうしたい」という具体的な欲求が出てきやすい。 今回は工事中のキッチンがブレイクスルーのポイントとなった。キッチンが思うように使えないからこのところ買ってきた総菜や外食が続いていたのだけど、もう飽きて嫌だと思っているのに「工事中だから仕方ない」ってあんまり何も考えずに続けていたことに気がついた。もうさすがに外食も総菜も嫌だ。 じゃあ、どうしたい? うーん、とはいえキッチンが万全な状態じゃないから手の込んだ料理を作るのは嫌だ。洗い物もままならないし。でも、オーブンを使った野菜のローストとか、刺身を買って来るとか、手間のかからない料理ならできるし、それは気分が晴れそう。 というわけで、それを実行したら、本当に不思議なんだけど、それだけでモヤモヤが少しずつ晴れていくんですねぇ。 小さな扉が開けばしめたもの。そこからはまた流れに乗っていきやすい。 大きな流れは小さな風穴から始まる。大きな物事を動かしたくてにっちもさっちもいかないときほど、小さなことを見逃していないか、確認するようにしようと改めて思った。

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全然ときめいている物に囲まれていなかった話

ちまたで話題のコンマリ・メソッドでクローゼットを整理した。「ときめく」か、「ときめかない」かだけで仕分けしていき、ときめかないものはさようならするというシンプルな作業なのだが、なんとクローゼットの半分くらいの服とさようならすることになった。 これまでこんなにもときめかない服に埋もれていたとは! その自覚がなかったことに驚くし、がっかりもした。かなり日常のさまざまなことを見直していたつもりだが灯台下暗し…。 実際の作業はただひたすら「ときめく」か、「ときめかない」か、で感覚的に進めていったのだけど、終わってから考えてみると、さようならすることになった服たちと手元に残すことになった服たちには一定の法則があることがわかった。 いずれの服も「衝動買い」で買ったものがかなりあるけれど、さようならする服の場合は、まずだいたい試着しないで買っていた。衝動買いだったけど残すことになった服は全部確実に試着していて、試着した上で「これだ!」となったものであった。 また、衝動買いでなく買ったものはほとんどさようならする服に含まれていた。わたしが衝動買いでなく服を買うのは、だいたいパーティーがあるとか、特別なイベントの前に必要に迫られて買ったものだ。 さようならしたものの中にはこの2、3年に買ったばかりの物も結構あって反省した。今後はこんな無駄なことをしないよう、その物に本当にときめいたから買いたいのか、ただの渇望感でなんでも買いたい気持ちになっているだけなのか、そもそも買うときにもう少し確認するようにしようと思う。そして、試着は必須。人間だってハグしたらすぐにぴったりくるかわかるもの、洋服も同じだ。 空いたクローゼットを埋めるためにさっそくショッピングに出かけたけれども、ときめくものはビーチサンダルだけだった。 本当にときめくものだけに囲まれるように、日々、こつこつと吟味して整理整頓していったら、自分のいる場所は今とは変わるような気がする。「いる場所」というのは、物理的な意味はなく比喩的な表現ですが。

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いつ、なんで、そう決めたっけ?

髪をカラーリングした。よくよく考えてみたら10年近くぶりであった。なんで10年もカラーリングしなかったかというと、その当時、わたしは自然回帰を志向していたからだ。髪を染めるなんて不自然だし、カラー剤が皮膚吸収されて体に悪そうだし、ナチュラリストとして、本来自分が持って生まれた髪の色を大事にすると決めたのだ。 しかし、その後10年間ずっと同じような熱意を持って「カラーリングはしない」と意識していたわけじゃない。ただ、カラーリングをしないことが習慣になって、ありがたいことに白髪もなく、特に必要に迫られることもなかったので、いつしかカラーをするという選択肢があることを忘れてしまっていただけだ。 今回、仕事で体験取材をする必要があり、カラーリングを提案されて、ああ、そうだ、そういう選択も美容院にはあったのだと思い出した。心がときめいたので快諾して、結果、10年ぶりに髪を染めた。 鏡の中にうつる髪を染めた自分に、常に髪をカラーリングしていたかつての自分が重なって、いろんな思い出が蘇った。さまざまな気持ちも出てきた。 髪型を変えるのってすごく不思議な行為だ。どこかセラピーのようだった。 「カラーリングをしない」というのも、そのときは自分にしっくりくる決意だった。ただ、いつなんで決意したかはそのうち忘れられて、単なる習慣として続けているだけのことになっていた。そういうことって他にもきっとたくさんあって、そういうひとつひとつを意識的に見直していくと自分から出てくるパワーみたいなものが格段に上がる。 特に40代になると、そこそこいろいろな体験を経て、さまざまな物事に対して「わたしはこれ」とどこかの段階で決めていることが多い。見方によっては自分の軸があっていいと言えるのかもしれない。けれど、その軸は本当に”今の自分”に即した軸なのかを問う余白は持っていたい。 今の自分に即した軸かどうか? 自分で自分を客観視するのはなかなか難しいから、やはり時々、他人の意見を聞くのはいい。その意見を聞き入れるか、入れないかは、あくまで自分の選択でいい。ただ、他人に聞いてみないと見えてこない視点(選択肢)があるということには心を開いておこうと改めて思った。

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本『先生、ちょっと人生相談、いいですか』

  作家・僧侶の瀬戸内寂聴さんと詩人・伊藤比呂美さんの対談本『先生、ちょっと人生相談、いいですか』を読み始めたら、いやー、愉快・痛快。ページをめくる手が止まらなくて一気に読み終えてしまった。 本は、比呂美さんが、自身のことや、また相談を受けることの多い悩みの内容についてや、寂聴さんのこれまでのこと、年を重ねることや死についてなど、さまざまな問いかけを寂聴さんにしているのだが、「わー、そんなこと聞いちゃうの!?」という質問も多ければ、「えー、そんなことまで喋っちゃうの!?」という回答ばかりだわで、いい意味で、人生の達人の”ガールズトーク”を聞いているような楽しさがあった。 読んでいると、寂聴さんは、「自分の欲求をちゃんと聞く」→「それを自分で叶えてあげる」という、しあわせであるための基本的なことをちゃんとやっている方なのだとわかる。 たとえば、94歳で心臓のカテーテルの手術をしたときは、さすがに鬱になりそうだったが、だからこそ「自分は今、何をしたら一番幸せな気分になれるかを一所懸命考えた」と言う。 寂聴さんにとって一番幸せなのは自分の本が出ること。でも、そのときは本を出すような作品がなかったので、どうしたらいいか考えているうちに昔から俳句を書きためていたことを思い出したそう。それらを寂聴さんが本にしたいといえば出版社は断れないだろうが、俳句のプロではないのでさすがに悪いと思って自費出版で本にしたところ、急に元気が出てきたと。 自費出版は高くついたけれど、めっぽう評判がよくて重版になった上、俳句の賞までもらったというから、すごい。 自分の中に、あれはダメ、これはダメ、こうすべきだ、こうあるべきだ、こうしなきゃ、というルールが多い人は、この本を読んだら不愉快になりそう。なんたってお二人の話はあけすけで、課すことから解き放たれた自由さがあるから。 また、きっと、男性が読んでもピンとこない気がする。やっぱり、これはガールズトークなんだな。 逆にわたしと同世代ぐらいの女性で、生き方について考えるのが好きな人や、不満はないけどなんとなくこの先が不安という人、実際にいろいろ悩みがある人には心を晴らしてくれる一冊ではないかと思う。 わたし自身は、読後「40代半ばなんてめっちゃ若いじゃん。女盛りじゃん♡」と意識が変わって、パワーがみなぎって、ニヤニヤが止まらなかった。ありがとう、寂聴さん、比呂美さん。

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進化とか成長とか

元Happyちゃん(って元プリンスみたい)こと、 Sachi。(さちまる)さんは、世界はエネルギーであるってことや、自分が世界であるっていうことを、体感として気付くための実践方法を教えてくれた人だ。 彼女の活動内容がどんどん変わってきている現在でも、私はInstagramなどでその動向を常にチェックしている。特に今、彼女は私にとっては身近なお隣の都市、ロサンゼルスに短期ダンス留学をしているので、海外在住日本人としては、彼女が海外で、西海岸で、どんな人やものごとと出会い、何をどう感じるのかをリアルタイムで共有してくれるのが面白い。 そんな彼女のInstagramでは、今朝、3週間前のダンスクラスの状況と今のダンス動画が投稿されていた。 それを見た、私の最初の正直な感想は、「うまくなった、けど、やっぱりまだまだできていないこともいっぱいだわね」。 ははは、何様だっていう話だ。でも、そう思ってしまったのだから、正直に告白したまでである。 しかしである。その後、他の人の投稿を見ているうちに、ふと、また気になって彼女の投稿に戻りたくなったのである。たぶん、私の中の私がそうさせたのだと今はわかる。 もう一回見ても感想は変わらなかったんだけど、今回はその投稿についているコメントに目がいった。そこで衝撃を受けた。みんな、あれができるようになっている、これができるようになっている、と、ちゃんと「できるようになったこと」を褒めていたのだ。 つまり、私は、「できるようになったこと」に全然目を向けていないのだと気付いたということ。 これは彼女に対してのように見えて、その実、自分に対してそうだってことなのだ。 人は鏡だっていうけど、その人はその人としてあるだけ。その人をどう見るか、その見方のベースにあるのは自分の思考だということだ。その思考がある限り、誰に対しても同じことを感じる。誰に対してもっていうのはもちろん自分に対してもだ。 それで、そういえば、サーフィンも、「まだあれができない」「まだこれができない」って、できていないことにフォーカスしているなぁと気付かされた。 できるようになったこともいっぱいあるのにね。 そもそも、何かできなかったことができるようになったことを進化とか成長とか言うけれど、はたしてそうなのかっていうことさえ怪しい。 できないことが、できるようになった、という結果よりも、できるようになりたいと思って生きる、その過程を続けることが人生と言ってもいいのかもしれないとも思う。 そしたら、できていないことについていちいちがっかりしないどころか、できるようになったことにさえとらわれなくなって、心はどんどん自由になるね。

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いつかの海、いつの日かの海

朝5時30分。海に向かうために家を一歩出たところで、冷たい空気の中にやわらかな湿気が混じっているのを感じた。春の気配。 7年前、2012年の2月の今頃は、夫を亡くした悲嘆の最中にあったはずなのだけど、正直なところ、当時どんな心境でどんな風に暮らしていたのか、今となってはどうにも正確には思い出せない。友人たちから「こんなこと言っていたよ」と聞かされると、「ああ、そうだった、そうだそうだ」となって記憶の断片は出てくるのだが、その断片を手繰り寄せても全体像にたどり着かない。友人たちから聞くかつての自分が言ったという言葉も、はて本当にそんなことを考えていたのかと現実感に乏しい。 でも、よくよく振り返ってみると、これは悲嘆に限らない。少なくともわたしの場合は。 たとえば中学生の頃のことを思い起こしてみても、はたしてどんな心持ちでソフトボール部にあんなに心身を捧げていたのか、自分のことなのにさっぱりわからない。 こういうとき、いつも細胞は一定周期で総入れ替えされるという話を思い出す。 あのときの細胞はもうわたしの体にはひとつもないのなら、あのときのわたしといまのわたしは似て非なるもの。とすれば、記憶が自分のことでないかのようにあいまいなのも自然ではないかと。 それでも、時々、ひょんなことから引っ張り出される記憶というのがある。たとえば、今朝、冬の中に入り込んだ春の空気に触れて蘇ったのは、鵠沼に引っ越した9年前の2月、今頃だ。 春めいた陽気のある1日に、せっかく海の近くに引っ越したのだからとビーチに繰り出したら、とんでもない強風で砂嵐。海が身近になるまで考えたこともなかったが海辺は遮るものが何もないから風に吹かれっぱなしで寒いこと寒いこと。夢見た海辺の暮らしの現実をいきなり突きつけられてほうほうのていで逃げ帰った、ある午後の記憶。 逃げ帰ったわたしを夫は家でニヤニヤしながら迎えてくれた。そうなること、(この町で育った)俺は、わかっていたよ、と言わんばかりに。 思えば、海に恋したのは、そのときだったかもしれない。みんなが知っているヒーローみたいな夏の海とは違う顔を見て、もっといろんな表情を見たいし、知りたいと思った。夫はさも海のことを知っていそうなのが悔しかった。 わたしがサーフィンを日常的にやるようになったのはその年の夏のことだ。 夫がいないと海に出られなかったわたしは、今は一人でも平気で(しかも車で!)海に行くわたしとなって、あの頃は出会っていなかった人たちと、あの頃は住むことになると想像もしていなかったカリフォルニアで波乗りを続けている。 そしてまた何年か後になって、はてあの頃はサンディエゴで何を考えてどう暮らしていたのか思い出せぬと言っているんだろう。 なんであれ、そのときのわたしが笑っていればいい。いまのわたしは笑っているから、過去のわたしもそれで満足であろう。 未来の自分は笑っていることがどこかでわかっていたから、泣いたりもがいたり、たいしたことでないという風にしたり、いろいろ試行錯誤しながら生き延びてきたような気さえする。

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気分の上げかたはシンプル

たぶん前日に4時間もヨットに揺られたせいもあると思うのだけど、翌日は酷い片頭痛で1日起き上がれなかった。 体調が悪いと気分もめげるので、とてもじゃないけど「Live Love Laugh and Surf♡」なんて気持ちになれないし、そんなときに輝いている人を見ても全然前向きにはなれず、それどころか「若いっていいな」とか「健康っていいな」とか、いつもは出てこないようなひがみが出てきてどんどん落ちていく。 そう、感情って階段みたいな特徴があって、地下に落ちちゃうと、いきなり最上階には上がれない。一度、地下に入り込んでしまったら、最上階にいるきらきらと輝いている人を見たり真似たりしてもインスパイアされることはまずなく、はじき飛ばされるだけだから、這い上がりたかったら、まずは目の前の階段を一つ上がることに集中する。 この場合、目の前の階段を一つ上がることとは、今この瞬間に自分の気分がほんのちょっとマシになることを探して実行することだ。 例えば、アイスクリームが食べたいなら食べる。そこで、「体に良くないよな、甘い物は」と意識で批判を入れない。むしろ、望むことをちゃんとやったと自分を褒める。食べたことを褒めていい気分になれないなら食べない方がいい。その場合は、食べなかったことを褒めて気分が良くなればそれでいい。いずれにしても、自分の気分がちょっとでもマシになることを探して、実践し続ける。酷い頭痛のさなかにも、探そうと思えば、必ずある。つべこべ考えていないでちょっと寝る、でもいいのだ。そうすることで気分がマシになりそうなら。 それらの小さなことをコツコツとバカみたいに繰り返していると、地下にいるかのようなかなりネガティブな感情はようやくゼロ地点、地上に戻ってこられる。そこまできたらしめたもの。まあ、そこからも、やることは、「今、自分の気分がちょっとマシになること」を探してやる、それだけなんだけど。でも、気付いたら、きらきら輝いた人を見ても、「あの人と自分は違う」と卑屈にならずに、「元気と勇気をくれてありがとう」と自然に思える自分がいるようになっている。無理に思おうとしなくても自然に思えるようになっている。けれど、そう思えるようになるまでには地下からはワープしては来られないのです。 今、自分の気分がちょっとマシになることを見つけたけれど、いろんな理由でやれない、ということもある。けれど、その場合は、今、与えられた環境でやれる精一杯のことをするだけでエネルギーは同じ階で保たれる。たとえば、「やりたい」と誰かに意思表示すること。たとえ、断られても、欲求を自分のうちに留めて押しやった場合とは、心と体の躍動が違う。 そうやって落ちたり上ったりの繰り返しで、上っていると感じられる時間、上階にいられる時間が多くなれば人生はかなり楽になる。でも落ちている時間もあっていい。落ちても上り方を知っていれば怖くないし、上ってしまえば落ちていた自分でさえ愛おしいと思うから不思議なものだ。

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