Essay Category

覚悟を決める

数週間前からアドラー心理学という言葉になんども出てくるのでいくつかの本を読むことにした。アドラー心理学は名前は知っていて、なんとなく内容も認識しているつもりでいたが、本を読むのは初めてであった。 読んでみて、「性格は後天的なものだから変えられる」とか、「現状を引き起こしているのは過去(トラウマ)ではなく未来(の目的)である」とか、この数年、わたしが自分で感じて考えてまるで自分の手柄みたいに思っていたことが、アドラーの理論だったということを知った。

Read More

薔薇のメッセージ

「もし、私に何かメッセージをしたいときは、薔薇になって出てきてちょうだい」。9年前に亡くなった夫にはそうお願いした。 生前に口頭でお願いしたわけではない。亡くなってから、わたしがそう「決めた」というだけ。要はおまじないみたいなもんだ。薔薇を見たら、「わたしは見守られている」と信じられる、そんな感じ。

Read More

What if…?

わたしはけっこうな「いらち」である。亡くなった前の夫はわたし以上に「いらち」だったので、自分がいらちという自覚はなかったが、いまの相方はものすごく穏やかでのんびりしているので、一緒にいると自分のいらちぶりが際立って、ようやくいらちを自覚した。 じつをいうと母親がなかなかのいらちで、スーパーのレジでちょっと待ち時間が長いとか、小さなことでいつもイライラしていた。もちろん大人なのでそれを他人にぶつけたりすることはないのだけど、「あれあれ、こんなことでいちいちイライラしていたら大変だわね」と他人事のように思っていた。でも、気づけば、自分が母みたいになってた。

Read More

「やりたい」にはダミーもある

心と呼んでいいのか、無意識とか潜在意識と言うべきか、なんの話か定義は難しいので端折るけれども、自分が「やりたい」と思っていることが、じつは巧妙に本音を隠すためのダミーであるということが、けっこうある。 そのことは知っていたけれど、まさか、自分の「やりたいことA」がダミーであったらしいということには気づいていなかった。いや、Aがやりたいことであることには変わらない。だけど、もっともっと深く覗き込むと、本当はBをやりたいのに、Bをやれない(と自分で決め付けている)ために、できそうなAを矢面にしていただけだった。なんということだ。

Read More

自分を信じられるようになるということ

冬だからか、それとも命日反応か、あるいは、特集2本抱えているという精神的プレッシャーからか。先週は、せっかく他州からお友達が遊びにきてくれていたというのに、自分のテンションは最高潮ではなかった。別に暗く落ち込んでいたわけではなく、普通に暮らせていたけれども、ここのところ「ひゃっほーい!」というくらい元気満々なことが続いていたので、笑っていても人としゃべっていても心の奥にシンとした寂しさがあるこの感覚は久しぶりであった。 なんだろうなぁ。たぶん、自分の中の声で、聞いていない物事があるんだろうなぁ。そんなことをぼんやり思うが、どうにも打破できない。ああ、これが噂に聞く更年期のうつっぽさかしら。じゃあ、まあ、しょうがないか。そんなやりとりを自分の中でしているうち、昨日になって急に活力が戻ってきた。アメリカにいるおかげもあって季節の変化にはだいぶうとくなってしまったが、そういえばその日は立春であった。春とともに元気になる、その自分の動物ぶりに自分で笑ってしまった。

Read More

きみは笑っているだけでいい

昨年の秋から年末にかけて受講していた、エリザベス・キューブラー=ロス・ファンデーションによる教育シリーズ「The Essense of Caring for the Dying and the Griving」のサーティフィケート(修了証書)が届いた。修了証書がほしくて参加したわけではないが、でもこういうのをもらうとうれしい、というか達成感がある。 この教育シリーズ、レクチャーがあるのは毎週木曜、アメリカ太平洋時間での朝。組織に所属するフルタイムの編集ライターである自分にとっては、朝一から会議などがないのは火曜日と木曜だけ。それはつまり朝サーフィンを存分にやれるのは火曜日か木曜日しかないということでもあって、そのうちの木曜がレクチャーでつぶれてサーフィンのチャンスが減ることはちょっとつらかったんだけど、冷静に考えたらたかだか11回をスキップするだけであるし、ほかの曜日であったら朝一の会議とぶつかるために参加できなかったろうし、とにもかくにも参加してよかったといまは思う。

Read More