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8.27.2019

会いたいなぁと常に意識的に願っていたわけではないけれど、でも会えたらうれしいなぁ、仲良くできたらいいなぁと思っていた人たちから一気に連絡がくるという面白い流れが発生中。みんないずれもわたしが憧れる部分を持つ人で、部分的にロールモデルにしたい人たち。みんなの素敵なところをカタログギフトとしてオーダーしたら憧れのわたしができる、みたいな。 それがまたみんな知らないはずなのにわたしの誕生日前後の日程にまとまっているのが面白い。平日だし、希望の場所はLAだったり、オレンジカウンティーだったりで、会社勤めの私にはかなり厳しいのが正直なところなんだけど、でもなんとなくここは多少無理をしてでも会っておきたい気持ちもある。というのも、みんな日本にいたり、世界を飛び回っていたりで、そうそう会える人たちじゃないので。でも、仕事が終わってから渋滞に巻き込まれながら3時間かけてLAに行って、会ってまた翌日の仕事のために戻るっていうのは体力的には厳しいなぁというのもまた本音で、これもまた最終的には自己対話して自分が心地良い方を選ぼうとは思っている。 自己対話といえば、この一連の流れはFacebookを利用停止しようかなぁと思って自己対話を始めた頃に始まったというのが面白い。連絡をくれた人たちのうち数人は、SNSでわたしの近況を知らなかったら、わざわざ会おうと声はかけてこなかったんじゃないかなぁと思う(想像だけど)。となると、Facebook、別に見なければいいだけで、利用停止しなくてもいいんじゃないか、とまだまだ自己対話は続く。 本当は、問題はFacebookじゃないってこと、わかっているんだけどね。Facebookはわたしの人付き合いの姿勢を象徴しているというだけで。だから、人付き合いに対する姿勢が変われば、きっと私にとってのFacebookも変わる。けど、そこ向き合うのは楽しくなさそうなので、とりあえず象徴的な部分を切り離すことで風を吹かせたいと思っていたと思われる(他人事のようだ)。これもまだ対話中。長いなぁ(笑)。でも、「こうする」って決めるときや動くタイミングは、「いまだ」って時がくるので、それを気長に待とうと思う。 最近、サーフィンでここ数カ月あった停滞感を急に抜けて次のレベルに行ったという実感があるんだけど、ここへ来て急に新旧の憧れの人たちと会うことになったことは、日常の停滞感、マンネリ感からも抜け出すタイミングなのかもしれない。 今日はいつもにましてまとまりがないけど、なんとなく雑感を記録しておきたかった。これ、新しい流れの始まりかもしれないよと思ったり、思わなかったりで。

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8.24.2019

エリーとお別れ。といっても、戻す先はシェルターではなく、フォスター(保護犬を預かるボランティア)の自宅で、そこには他にも何頭もの犬がおり、エリーには楽しい記憶があったようで、うれしそうにみんなの輪の中に入っていったので、別れた思ったほどつらいものではなかった。 フォスターによれば、早くもエリーに興味があるといっている人がいるそうで、この後、見にくるとのこと。ちゃんとマッチした家族と出会って余生をしあわせに暮らせることを祈って、早々に引き上げた。 ユパは帰りの車の中で、エリーがいないことを確認するかのようになんども車の後ろを覗いていた。けれど、それ以外には特にいつもと違ったそぶりはなく、帰ったらわたしの隣でお昼寝を始め、もともとの2人と1匹の生活に戻った。 エリーのいた夏が終わる。フォスターもわたしたちも、ちゃんと手続きをして、最初から細かいところを確認し合うことを怠らなければ、短期間で環境を二転三転させられるという、大人の犬にはストレスのかかることをさせなくてよかったのに、ごめんね。保護犬を引き取るということについてひとつまた勉強したので、次から気をつける。 なんだかオセロが戻ってきたみたいな、夢見たいな夏だった。ありがとう。

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8.23.2019

ラブラドールのエリーを返すことになりそうだ。 ことの発端は、5歳だと聞いていたのに8歳とわかったなど、譲渡のときに聞いた条件が違っていたことが判明したこと。そして、これを受けて、保護活動をしている施設が「自分たちの落ち度だから、犬を返してくれてもいい、その場合、譲渡でもらったお金も全額返す」とオファーしてきたこと。 譲渡時の条件にいろいろ間違いがあったとわかった直後は、それでも何かの縁だし、何より犬がかわいかったので、返したくないと思った。けれど、生半可な情と正義感で引き受けてもおいおい後悔することになりそうだと考え直した。ものすごく人が好きな犬で、おそらく前の家族と暮らしていたときは長時間留守番することはなかったのだろうと思わせる行動があって、はたして平日はフルタイムで働いて留守にしている(ランチタイムに相方が帰ってきてくれるとはいえ)我々のところにいて犬がしあわせなのかという疑問があったのも確かである。 いい犬なので、8歳だとか、その他の条件を知ったうえでも、飼いたいと思う人はいるだろう(と施設の人も言った)。だったら、そういう人たちのところに行ったほうがしあわせかもしれないと。 今回、一時とはいえ、子犬と成犬の保護犬を両方飼って、成犬の保護犬の里親になる難しさを勉強した。子犬のうちは、しつけも、我が家のルールも一緒に構築していける。でも、成犬は、結構いろんなことが完成されているし、そもそも成犬で保護犬になる犬というのは、なんらかのトラウマなりがあって問題行動(人間から見て)があるケースも多い。 だからこそ、最初から条件をしっかり知って、納得したうえで、心して里親にならないと、互いにしあわせにならない。 我が家にいた数週間、エリーはしあわせだったかな。不幸せだったとは思わないけれど、この家で生き延びるためにこの家に合わせてがまんしていることはあっただろうな。子犬のユパがちょっかいを出すと、相手をしてくれていたけれど、年齢も犬種も違うし、じつはうざったく思っていながら一所懸命あわせてくれていたのじゃないかな、とか。 Xデーは明日。犬には何かわかるのか、エリーは今日はいつもよりずっとくっついて回って撫でられたがり、エリーが撫でられているといつもちょっかいを出してくる子犬ユパは、今日はずっとおとなしかった。

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8.22.2019

Twitter初期にはアカウントを持って比較的よくつぶやいていたのだが、夫を亡くした後にアカウントを削除した。そうしたくなったからしただけなんだけど、それによってTwitterでは友だちというくらいよくやりとりしていたのにいまはどこで何をしているかまったくわからない人もいれば(そもそも本名も知らない)、もともとは知り合いではなかったのにTwitterをやめた以降も他のSNSでゆるくつながっているという人もいる。 つながる人とはつながるのだ。 というようなことを、いま言い聞かせるように書いているのは、いよいよFacebookをやめたいという気持ちが大きくなってきたからだ。 FacebookはTwitterと違って本当の知り合いとつながっていられる場で、「友達」の仲には、頻繁には会うことはないけれどつながっていたい知人や恩師がたくさんいる。だから、Facebookはわたしにとって昔の年賀状みたいな役割を持っている。めったに会わないけれど年賀状のやりとりだけは続けることで近況のアップデートが少なくとも1年に1回できるし、年賀状だけでもやりとりがあれば、たとえ20年ぶりくらいだとしても直接会うことへのハードルは低くなる。年賀状のやりとりをしなくなったいま、Facebookを失うことは怖いというのは大げさにしても、いちまつの寂しさや躊躇はやっぱりある。 というわけで、自己対話を続けているのだけど、どうもわたしにはとにかくやめてみたいという気持ちがあるのは本当。そもそももうほとんど使っておらず、見ることもしていないので、やめたも同然じゃんとも思うのだが、心の声は潔くやめたいと言う。いやいや、待って、近しい友だちは(Facebook関係なくつながっているから)いいとして、AさんやBさんとやりとりできなくなるのは寂しくないか? え、「やりとり」なんてそもそもしてないじゃん、たまに投稿見るくらいで。いやいや、よく考えてみ? そもそもAさんもBさんも最近、たいして何も投稿してないじゃん? それなのにやりとりがなくなるの寂しいってないない! と自己対話という名の自問自答を続けて数週間。ここへきて、やめたいという心の声に従った先に広がるものを見てみたい気持ちが増している。 で、いろいろ調べてわたしが見つけた案が、アカウント削除(退会)ではなく、アカウントの利用停止というもの。心の声は「潔くやめたい」と言ったけれど、 Messangerしか連絡先を知らない人がけっこういるから、その人たちとの連絡窓口をなくすのは嫌というのも心の声で、両方を叶えるのは利用停止のほうかなと。 誕生日が近いので誕生日をXデーにしたら気分いいといまのところ思っているのだけど、さて、どうだろう。まだもう少し時間があるので、自己対話を続けてみよう。

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8.19.2019

あたりまえだけど2匹のわんこ、それぞれ性格が違っておもしろい。 ラブラドールのエリーは温和で従順。でも、案外ちゃっかりしているところもある。犬より人間が好きで、一緒に飼っている我が家のテリアミックスのユパ以外の犬とはまず遊ばない。どころか、気に入らない犬に対してはすぐ噛み付く癖があることが飼ってからわかった。あと、留守番が長いと、机の上などがんばれば手の届くところにある食べ物を食べてしまう。日本で飼っていたラブラドールはこれをしなかったので、ラブラドールはみんなそんなことしないと思っていたが、日本にいるオセロが特別だってことがわかってきた。 テリアミックスのユパは好奇心旺盛で活発で勇敢。エリーはおもちゃで遊ぶときもわざわざ人間のそばに持ってきて遊ぶが、ユパは姿が見当たらないと思って探すと一人で遊びに興じているなんていうことがけっこうある。たまにむしろ一人でいたさそうなときがあって、サイズの小ささと、子犬ならではの柔らかさも相まって、猫みたいに感じることがある。 この性格の差には、個体差だけでなく、犬種、年齢による特徴も交わっているのだろうが、わたしの見えないところで何か(わたしたちにとって)悪いことをしたとき、「あー」とわたしが言うだけでエリーは尾っぽを下げて逃げようとするのに対し、ユパはそもそも悪いことをしたという自覚がないので、「なになに!? 遊んでくれるの!?」とむしろ楽しそうにする。 どっちもそれぞれ違って、どっちもそれぞれかわいい。 わたしは20代になるくらいまで母親と折り合いが悪く、自分がいろいろあってうつになってカウンセリングなどに通っているうちに母娘関係という課題が浮き彫りになって、20代から30代にかけてさまざまなセラピーを受けて解放してきたという経緯がある。 解放の過程で、母親が酔っぱらって泣きながら「アダルトチルドレンの本を読んだら、自分はまさにこれだと思った」と言い出し、「特に子どものうち唯一の同性であるあなたにはつらくあたったように思う。実際、扱うのが難しい子で、苦手だった」と打ち明けられたことがある。 そのときはすでにわたしはカウンセリングに通って長く、その件についてだいぶ達観していた。母がアダルトチルドレンというのはとうにわかっていたし、でも自分もその課題を乗り越えることをしたくて母(とこの家族)を選んできたのだと思っていたし、子どもが数人いれば気が合う合わないがあるのは当たり前とも感じていたので、別に傷つかなかった。けれど、犬を飼って、いま、そのことについてちょっと考え直すようになった。母は確かに幼いわたしのことが苦手だったかもしれないし、つらくあたったかもしれないけど、でもきっとかわいいとも思ってくれていたに違いないと。 過去は変えられないというけれど、過去の出来事をどう捉えるかはいつからでもいくらでも変えられる。そういう意味では、過去は変えられると言っていいんじゃないかと思う。

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