Updates Category
じゃあね。またね。
Posted on January 5, 2019 Leave a Comment
空港に向かうバスを見送る列の中に大泣きしている幼い女の子を見かけた。状況から察するにお正月に遊びに来ていたおばあちゃんとお別れするのが悲しくて泣いているようだった。 自分も小さな頃はそうだったなぁ。 なんであんなに悲しかったのか、いまではもう正確には思い出せないけれど、日常と違う楽しい時間が終わってしまう寂しさや、もう会えないかもしれないという不安があったのだと思う。 もう会えないかもしれない。 考えてみたら、いや、考えてみなくても、ひとつひとつの「バイバイ」にはそれが今生最後のお別れになる可能性はいつだってある。 そこを意識して、毎回、今生最後みたいな気概で会って、別れるときは永遠にさようならをする気持ちでバイバイ…と、やれたら理想だけど、そうすると毎度毎度の「バイバイ」がいちいち一世一代の出来事になって、あの幼い女の子みたいに涙の別ればかりになってしまいそうだ。 わたしは誰かと「バイバイ」するとき、これが最後になる可能性があることを受け入れながらもあえて「また会える」と信じて別れるようにしている。もっといえば、「また会えると信じる」と決めて、別れている。だから、「バイバイ」や「さようなら」より、「じゃあね」「またね」を好んで使う。こういうのは夫を亡くしてから特に意識するようになったことだ。 「また会えると信じると決めた」から、次に会ったときには○○をしようね、なんていう約束も積極的にする。 もしへたに約束なんかしちゃって、本当に最後になっちゃったら、約束を果たせなかったことへの後悔が残らない? この回答は人それぞれだと思うけど、わたしはもし約束を果たせなくても、その約束を叶えることがお互いの夢なり希望なりになって、離れている間もときどきそのことを考えて互いのことを思い出して微笑んだ時間があったなら、それでいいと考える。いや、むしろ、それがいい。
オハナ
Posted on January 3, 2019 Leave a Comment
おそらく一般的には珍しいことなのだろうが、わたしは亡くなった夫のお父さんと仲がいい。 夫が生きていたころは、普通によくいる義理のお父さんと嫁だった。ちょっと普通ではないくらい仲良しになったのは夫が亡くなってからだ。 最初のうちは、亡くなった夫の役を、お義父さんで埋め合わせしようとしていた節がある。お義父さんはわたしを気分転換させようと、「あそこへ行こう」「ここへ行こう」とよく連れまわしてくれたからだ。 でも、あるとき、この人は亡くなった夫のかわりにはなりえない、という当たり前のことに気づいて泣けた。その後、しばらくお義父さんが疎ましくなった。 お義父さんがわたしのことを人に「嫁」ではなく「娘」と紹介することに嫌悪を感じて、「嫁です」とわざわざ言い直していた時期もある。 でも、そういういろいろな感情を経て、いまはむしろわたしのほうが「嫁」ということをすっかり忘れ、「娘」気分で甘えまくっている。日本に帰国するときは、かつて暮らしていた湘南の二世帯住宅にも必ず帰るどころか、両親のいる実家より長く滞在することさえある。 それは、「嫁」だからという理由ではもちろんない。単純にお義父さんに会いたいし、湘南の家が好きだし、そこで過ごすことが楽しいからだ。この感覚はもはや「娘」でもないかもしれない。 今年は5年ぶりに日本で年末年始を過ごすことが叶ったが、大晦日と元旦はお義父さんと湘南の家で迎えた。わたしがそれを選んだ。一昨年にだんなさんを亡くした親友も来てくれて、愛犬もいて、たくさん笑った。 ハワイの言葉では家族のことをオハナという。でもオハナが意味するのは血のつながった家族とは限らないそうだ。血がつながっていなくてもオハナはいる。 義理のお父さんとは、オハナ。それが一番しっくりくるかもしれない。人間として尊敬しているし、精神的な意味での絆は誰よりも強く感じる存在。 血のつながった家族がいる人、いない人、いるけど離れている人、関係がうまくいっていない人、いろいろな状況があると思うけど、血のつながりだけが家族じゃないって考えられたら、少し楽になるかもしれない。
感情ナビゲーションを使いこなそう
Posted on January 2, 2019 Leave a Comment
自分には「肉体の自分」を超える大きな大きな「意識の自分」がいる。目線を逆にすると、「肉体の自分」は大きな「意識の自分」のごく一部である。 意識の自分は本当に大きくて、いろんな人の意識と繋がっているので、どの瞬間も、どうすることが全体でベストかよく知っている。 たとえば、明日会う人に渡すお土産を包む包装紙が必要だ、となった場合。 自分の家に包装紙がないので、肉体の自分は、どこかに買いに行こうとする。 けれど、意識の自分は、壁の向こう、隣の部屋の隣人が包装紙を買いすぎて余らせていることを知っている。 この場合、意識の自分は、お隣さんに包装紙をもらったほうが自分にとってもお隣さんにとってもハッピーだと知っているから、肉体の自分に合図を送る。 肉体の自分は、「ふと」「なんかしらないけど」お隣さんに挨拶してから行こうかなと思ったりするわけだ。 でも、多くの人は、この「ふと」「なんかしらないけれど」の感覚に従わない。 「お隣さんに挨拶? もう閉店時間が近いから話し込んじゃったら包装紙買えなくなっちゃうから、買い物を先にしなきゃ」とかね。 結果、本来ならもっとシンプルにスムーズに進められるはずのことに労力をかけてしまう。 もちろん、それが悪いわけじゃない。ただ、包装紙をもっとシンプルにスムーズに手に入れることができれば、包装紙を買いに行くつもりだった時間を使って別の面白いことができる。 本当は、その余った時間で別の面白いことを楽しむという部分にこそ人生の醍醐味がある。けれど、多くの人は、必要だと思うものを手に入れることに追われて、それが人生だと思っている。 自分が両方を体験したから、自信を持って言える。 人生の醍醐味を味わうためには、まずは「ふと」「なんかしらないけど」という感覚を大事にして、従うこと。 ただ、現代社会はロジカルなことこそよしという風潮があって、「ふと」「なんかしらないけど」は軽視されてしまい、いつのまにか多くの人が意識の自分とコミュニケーションを取ることを封印してしまっている。 だから、感覚が鈍って「ふと」「なんかしらないけど」を感じ取れなくなっている。 そこで使えるのが、感情というナビゲーションシステムだ。 気分がよければ、意識の自分と近づく方向に向かっているということ。 気分がよくなければ、意識の自分から遠のく方向に行っているということ。 いま、この瞬間の気分はどう? できれば瞬間瞬間に確認できるのが理想だけど、まずは何か行動をするときやふと我に返ったときに自分の感情を確認することから始めるといい。 もし気分がよくなければ、気分がよくなることを探す。 何が気分いいかはそのときの自分の意識の段階によって変わるので、「前はこうだった」というのにはとらわれずに、今のその瞬間の気分に忠実に。今その状況の中でできる範囲の気分がよくなることを見つければいい。 たとえば、嫌なことをされたとき、それをした人について悪口を言いまくることが気分いいという段階もあれば、その人について考えるより他の楽しいことをしたほうが気分がいいという段階もある。 悪口を言うほうが気分がよかったけど、ずっと言っていたらある段階で、いまはもう悪口は気分よくないという段階もくる。なので、何がいい気分かは一瞬一瞬で変わることも知っておくといい。 以上は、宇宙の意識存在であるエイブラハムの教えから、自分が実践して体得できたこと。 エイブラハムの教えは一般に「引き寄せの法則」と言われていて、実際そうなんだけど、根本は意識の自分と肉体の自分をつなげる方法を説いている。両者が繋がることは「本来の自分で生きる」ことでもあって、しあわせに生きることでもある。 騙されたと思ってやってみて。一週間続けることができたら知覚していた世界がこれまでと変わり始めるよ。
しあわせは、技術である
Posted on December 28, 2018 Leave a Comment
実家の母が懐かしいものを保管していた。今は亡き夫が取り上げられている朝日新聞の「ひと」欄のスクラップ。2007年の記事。 本を出してカンヌ広告賞を取ってさらに次へ次へと、いい意味でガツガツしていた若い彼。病気になる前。その人に憧れ、追いつきたくて一所懸命だった若い自分。いろんなことが思い出されるけれど、夢を見ているような、映画を見ているような思い出しかたで、まるで自分のことのような気がしない。いつものことだけど。 日本に帰省して、若き彼と若き自分を知る友人たちに会うと、あれは夢ではなく、映画でもなく、本当に自分の人生だったんだとしみじみするのもいつものことだ。 同時にやっぱり全然違う自分として会っているような気もする。あの時、わたしは夫と共に一度死んで生まれ直したんだと。いま、生まれ直した自分として、死ぬ前から仲良くしてくれていたみんなと会っているんだと。 夫を亡くしてもうすぐ7年。いまだから言えるようになったとも思うが、一度死ぬ前と一度死んだ後を比べると、前もしあわせだったけど、後はもっとしあわせだ。 もしかしたら夫もそうだったりして。自分だけがしあわせだと後ろめたいからそう思いたいのかもしれないけど。 わたしが死別の喪失体験を通して学んだ大きなことは、しあわせか、しあわせでないかは、起こる出来事や周りの環境とは関係ないということ。 しあわせは感じるものだとよく言われるけれど、感じかたというのは性格や感性だけではなく技術でもあって、その気になれば意識的に鍛えられるのだ。