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11.23.2019

アメリカに来て2回目のベイビーシャワーに参加してきた。クリスマスには一族そろってツリーの下でプレゼントを開封するのが通例というファミリーに嫁いだ友だちのベイビーシャワーで、ホストするのは彼女の夫のお母さん。この時間は義理のお父さんさえも家にいることを許されない女性だけの会というトラディショナルなベイビーシャワーで、そのような文化を持たないわたしには全てが新鮮で、とっても楽しかった。

義理のお母さんはさすがにホスト慣れしていて、部屋のデコレーションも素敵で、キッチンカウンターに並べられたお料理もまるでレストランの立食パーティーのような見た目。写真はゲストそれぞれが作った、赤ちゃんのためのヘアバンド。道具や素材は全て用意されていて、その場でちゃちゃっと作れるのだけど、最後に主役の友だちがこの中から一番を選び、選ばれた人には景品(?)があるというゲーム。

みんなの目の前でプレゼントを開封する時間は、中から可愛らしい赤ちゃんグッズが出てくるたびに女たちがそろって「Woo…」とため息つき、「too cute」とか「so sweet」とか誰かしらから言葉が飛び出し、まさに女子会の乗りで、繰り返すけど、楽しかった。

一方、相方はいつものように波乗りに行き、「Fayはどうした?」とおなじみのローカル2人に聞かれたとのこと。「ベイビーシャワーに行っているのでサーフィンはこない」と答えたら、「ああ、そればっかりは義務みたいなものだから仕方ないわね」と同情するような反応を得たとのこと。きっと彼女たちは何十回もベイビーシャワーに参加していて、とりわけクラシックなスタイルのものは「またか」という感じでお腹いっぱいなのだろうけれど、わたしは友達のおかげでちょっとアメリカの文化を体験させてもらえて、うれしかったし、サーフィンができなかったことまったく気にならなかった。

10.4.2019

まだ読んでいないので安易なことは書けないのだけど、わたしが日々サーフィンと筋トレと英会話学習と犬の教育に余念のないことをGoogleやAmazon.co.jpはよくご存知で、この度、「ハーバード式英語学習法」という本を推薦してきてので、まんまと乗せられて買ってしまった。というのも、そこに書かれていた「書けない英語は話せない」という謳い文句がまさに自分の思うポイントだったからである。

いきなり話は飛ぶけど、これサーフィンも同じ。サーフィンの動きを陸でトレーニングする「陸連」って、はたからみたら恥ずかしい動きだから、バカにしがちだけど、安定した陸の上でできない動きを、不安定なサーフボードの上でやれるわけがないのです。件の謳い文句に言い換えるなら「陸でできない動きはサーフボード上でできない」。

で、英語学習に話を戻すと、英会話の上達をめざすときにまず考えつくのがリスニングとスピーキングのスキルを磨くことなんだけど、リスニングとスピーキングができるようになっても英会話はじつは上達しないということにあるとき気づく。

というのは、英会話のつまづきポイントってスキルだけじゃなくて、もっとそもそもの部分にあったりするからだ。そもそもの部分とは何かというと、「話したいこと(もしくは話すこと)がない」というもの。話したいことがないんだから会話を膨らませようがないのだ。本の謳い文句にあった「書けない英語は話せない」というのは、ライティングの能力がないといけないという意味ではなくて、書き出せるくらい頭の中で整理されていないものは口に出てくるわけがないということだと理解して、腑に落ちたのだ。

「そもそも日本語でだっておしゃべり得意じゃないし、仕方ない」とそこで止まるのもまた本人の選択。ただ、わたしは夫を亡くしてからというもの、残りの人生は自分の持っているかもしれない能力を可能な限り引っ張りだして生きるのだととんでもなく鼻息荒く生きているので、「そもそも日本語でだっておしゃべり得意じゃないし、仕方ない」では終えたくない。その壁を超えた自分を見たい。そこで、この間受けたのが英語に限らない会話力の講座なんだけど(こちら)、これは本当にブレイクスルーであった。話したいことがなければ聞けばいいっていう(笑)。

それで、聞くことが心から楽しくなって会話が好きになったところで、はたと、いやいや、わたしだって話したいことを持っているじゃないか、と思い至った。それまでは自分が人の話に興味なかったから、誰も自分の個人的な話に興味なんかないっていう前提でいたらしい。話したいことがないわけじゃないけど、人に面白いと思ってもらえるような内容ではないから話すことがないと思っていただけだった。でも、人の話はなんでも楽しく感じるようになった今、自分のどんな話だって相手にとって面白い部分はあると思えるようになった。前提が変わるというのはまさにこのこと。

でも、この境地にはいきなりは辿り着けなくて、まずは人の話を聞いてみるという段階が必要だったんですね。わたしの場合は。最近、毎日、脱皮しているような気分。新しい自分がぺろんぺろんと出てきて楽しい。

アメリカ移住の経緯(2)

前回の続き)

祈りの答えがもたらされたのは、それこそ本当に祈りの儀式に参加していたときだ。

ネイティブアメリカンのビジョンクエスト。4日間、山に一人でこもって祈り、「ビジョン(使命)」をもらうというもの。ラコタ族からその儀式を執り行う許可をもらったというKさんを指導者として、日本人であるわたしも受けることができたのだ。

伝統的には何にも持たないで山に入るのだが、近年のものは、タープ(雨よけ)と寝袋と水だけ(食べ物はダメ)は持っていってよい。また、例外として、自分にとっての祭壇となるもの、およびビジョンを受け取ったときにメモするための筆記用具も持ち込みが許された。

これに参加したのは、わたし自身が心底「ビジョン」を「クエスト(探求)」していたからに他ならない。前回書いたように、アメリカに行きたいという気持ちはありつつも、どうしていいかわからなかったし、もっと言えば、夫がいなくなった世界でこの先どうやって生きていきたいかわからず、何ならすべて神に決めてほしいと思っていた。決めてくれたら、それをやるから、と。

山に入って何日めだったろうか。ひたすら祈り続けている中で、急に心の奥から声が響いた瞬間があった。あたたかくて愛に満ちていて、自分のものであるだろうが、自分とは思えないような声。

声は言った。

「まず、望みなさい。望みを持つことは悪いことではない。あなたが心から望むことは、魂の望みでもあるのです。だから、まずは望んでください」。

自分はビジョンを与えられることを望んでいたのだが、もし自ら望んでいいのなら、やっぱりアメリカで暮らしたい、そう思った。そして、その声にこう返した。

「望んでいいなら、アメリカで暮らしたい。けれど、方法がわからない。可能性が高そうなのは留学だけど、本当の望みはただ暮らしたいだけで、高い学費を払って勉強したい何かがあるわけじゃない。となると語学留学というのが手っ取り早いけれど、学生だとその間、稼げないし、今さら英語を勉強したいわけでもない」。

すると声がまた聞こえた。

「山を降りたらすぐにリサーチをすること。いま、あなたが想像していない方法で、行ける手段が見つかるはずです」。

これを書いているいま改めて振り返ると、「っていうか、その手段を最初から教えて」と突っ込みたくなるが、そのときは「行ける手段が留学のほかにあるのかも」と思えただけで心が踊った。

そして、山を降りてすぐ、インターネットで検索しまくっているうちに、以前オーストラリアに移住した親友を訪ねたときに、現地の日本語情報誌を見たことを思い出したのだ。

日本語情報誌だから当然、日本人が作っている。そのような場所なら15年近く編集ライターをやってきていることが強みになって、雇ってもらえるんじゃないか?

出版、広告の世界にはもうほとんど興味がなくなっていて、再び戻りたいとは思っていなかったのだが、アメリカで暮らせる手段になるなら話は別だ。

調べているうちに海外転職をサポートする専門のエージェントがいることも知った。それが2013年の秋頃の話で、エージェントに頼んでトントン拍子に話は進み(多少の紆余曲折はあったけど)、その翌年の春に引っ越してきた。

当初はシャスタの近くを望んだのだけど、実際にはサンディエゴに落ち着いて、シャスタはちょっと遠のいたかわりに、サーフィンざんまいができている。

夫は亡くなる前に、言ってくれていた。「君が当面の間は生きていけるお金は残す。でも、次に生きていく場所が決まるまで暮らせるくらいの額だけだよ」。

よく、そのようなお金は使えなくて取ってあるという遺族の話も聞くのだけど、わたしは夫が志半ばで断念したツリーハウスの完成に使ったりしたほかは、「次に生きていく場所が決まるまでの暮らし」に使わせてもらった。

結果、アメリカに来る頃には、わたしがもともと貯金していた額だけが手元に残っていた。

彼は自身が言った通り、わたしが次に生きていく場所が決まるまで養ってくれたのだ、と思った。

かっこいい人だったんです。

この先、今生ではもう会えないことを思うとき、寂しくなることはいまも変わらないけど、彼亡き後、わたしがアメリカに流れ着き、たくましく図太くこの世界で生き延びていることを誇らしく思ってくれているだろうと信じている。

アメリカ移住の経緯(1)

2014年の3月にアメリカに移住した。きっかけになったのは2012年の2月に夫を亡くしたことだった。

子どもがいなかったので、「とにかく子どもを育てねば」という状況ではなく、また夫のお父さんと二世帯住宅で暮らしていたので、そこにいる限りは家賃は発生せず、よって「とにかく働かねば(お金を稼がねば)」という状況でもなかった。

これはありがたいことなんだけど、おかげで、わたしは「では、この先の人生どう生きていきたいのか」を問われることになった。「せねばならない」がない中で、夫もいなく、はたしてわたしはどう生きていきたいのか、と。

答えはもちろん簡単には出なかった。そもそも最初の1年は何かをする気力がどこからも出てこなかった。たまにサーフィンをすることだけが楽しみで、この先もこんな風にサーフィンをして暮らしたいなぁというくらいしか願望はなかった。

フリーランスだったのでいくつか仕事の依頼をいただいて取り組んだけれど、とてもじゃないけど頭が回らなかった。夫と結婚したことをきっかけに、わたしは東京から鵠沼に移り住んで、ライターやコピーライターの仕事は減らし、アロマとハーブの店でアルバイトするのどかな日々に楽しみを見出していたので、彼が亡くなった後、また再び締め切りに追われる、あの忙しい日々に戻るのかと思うと気が滅入って、現実逃避のように旅行ばかりしていた。

親友の暮らすオーストラリアへの一人旅。心の友とのハワイ旅行。そして、ひょんなことから声をかけられたカリフォルニアの聖地、シャスタへの旅行。

いま思えば、夫が亡くなった後の1年間のうちにした3つの旅行は、どれも自分にとって意味深いものであった。しかし、極め付けはシャスタだったと思う。というのも、わたしはそこでアメリカに暮らすたくさんの日本人と会って、「そういえばわたしはいつか海外で暮らしたいと思っていたことがあったなぁ」と20代の頃の夢を思い出したからだ。

1年か2年か、いやできればもうちょっと長く海外で暮らしている自分…想像してみたら、夫を亡くしてから久しく感じていなかった「わくわく」がちょっとあった。行くならカリフォルニアだと決めた。シャスタに通いたかったからと、何かあったらシャスタで知り合った日本人の仲間たちに頼れると考えたからだ。

不思議なのだけど、カリフォルニアに行こうと決めたそのときは、シャスタの近くというのが希望で、サーフィンは諦めていいと思っていた。というのも、シャスタは北カリフォルニアなので住むならサンフランシスコになるだろうから。サンフランシスコでもサーフィンはできるけれど、とんでもなく寒いのでかなりハードコアになると知っていたので。

でも、まだ、このときは、どうしたらカリフォルニアで暮らせるのか、方法がわからなかった。当時、わたしはどんどん精神世界に傾倒して、自分の欲求を消し、与えられた環境を受け入れることが霊的な成長だと信じていたので、海外に暮らしたいという欲求に対して自分で何か動くということはせず、「もし、この願いを宇宙が許してくれるならば、チャンスをください」と祈るばかりだった。

そしたら、ある日、祈りの答えがもたらされたのである。

アメリカ人はフレンドリーなわけじゃなかった!?

アメリカ、特にカリフォルニアにいると、近くにいる人が突然話しかけてくることはしょっちゅうある。

そんなわけでずっと「アメリカ人は明るくてフレンドリーだ」などと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。

というのも、最近、アメリカ人2人から同じ話を聞いたのだ。見知らぬ者同士が至近距離にいるのに何も話さないのは気まずいと。だから話しかけるのだと。

気まずいから話しかけるというのは考え方によってはもちろんフレンドリーということだけど、わたしが思っていたような「陽気で開放的」というのとは違ったわけだ。彼・彼女らは、友好的な姿勢を見せることによって気まずさを打ち破っていたとは、考えもしなかったなぁ。

わたしなんかは見知らぬ人に突然話しかけるほうが気まずく感じるのだが、他の日本人はどうなんだろう。

東洋にはない、西洋のハグという行為も、親愛の表現という以前に、「敵意がないことを示すためにやる」と考えると、見え方が変わってきそうだ。

物事について360度全方位から見ることを心がけたとしても、そもそもどこの立ち位置から360度見たかで、見えるものは違う。もっといえば左右の360度だけじゃなくて、前後の360度だってある。

その全てから見ることは難しいし、その必要もない気がするけれど、それくらいたくさんの視点が世界に存在していることは覚えておくほうが、生きるのは楽しそうだ。可能性は無限大って思えるし、何より誰かと違うからって、別にそれが間違っているっていうわけじゃないと自信を持てる。

どうしたって日本人

思いがけない出会いがあって、にわかにTai Chi、太極拳にハマっている。

クラスに通うようになって気がついたことがひとつある。それは、東洋の思想なり伝統なりをベースにした場は自分にとってひどく居心地がよいということだ。

居心地がいいのは、東洋の思想なり伝統なりは感覚的にわかるから、というだけではない。その場にいるのは、アメリカ人であれ、その他外国から来た人であれ、東洋の思想なり伝統なりに興味がある人で、リスペクトがある人だとわかるから、日本人の私は、日本人丸出しで、日本人らしくしていても受け入れられるという安心感があるのだ。

逆に言うと、これまで、アメリカという国になじもうと、アメリカ人たちの中に入ろうと、アメリカ文化に合わせようと、結構無理をしていたんだなと気づいたとも言える。

いや、なじもう、合わせようとするだけならいい。たぶん、どこかで「(アジア人だからって、日本人だからって)バカにされないようにしよう」という気持ちがあったんじゃないかな。だから、なじもう、合わせようというだけでなく、自分を隠して、違う自分になろうとしていた気がする。

前に出ることなく、隅の方でただニコニコしている、いい人そうだけど楽しんでいるんだかいないんだか、何を考えているんだかわからない気味の悪い日本人って思われたくなくてだいぶがんばっていた。

でも、昨日、太極拳のクラスの帰りに、ふと、「そんな私でいいじゃん」と思えた。静かで何を考えているかわからなくても、フレンドリーに自ら話しかけてくることはなくても、ちゃんと自分を持っている人であれば、それはそれでかっこいいじゃんと。

Mt. Fuji by Fay

以前、取材させていただいた、アメリカで活躍する画家、藤田理麻さんの話を思い出した。幼い頃、ニューヨークで暮らして、友達がほしくて皆と同じようになりたくてがんばったのにどうしてもなじめなかったが、ある日「日本人であることは自分の資産なんだ」と気づいて日本人である自分を受け入れてふるまうようになったらむしろ友達がどんどんできたという話。

日本にいると日本人であることが当たり前でそんなこと考えもしなかったけれど。私がアメリカにいながらして日本人であることを心底受け入れたとき、また流れが変わり始めるんだろう。