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9.27.2019

夫がまだ病気でなく、我々は結婚していなく、もっと言えば距離を置いていた頃の話。

気乗りしなかったのだけど、彼はけっこう強引なところがあったし、当時のわたしは流されがちに生きていたので、彼に誘われるまま、ビールを買って、駒沢公園に行ってハンモックを設置して、ピクニックした。今ぐらいの季節のことだったと思う。

その時、わたしは某コーヒーショップチェーンのクリスマスキャンペーンのキャッチコピーに頭を悩ませていた。いちから考えるコピーではなくて、米国本社で決まったキャッチコピーを日本版にするというもの。ただ英語を日本語に翻訳するのでは味気なくてさまにならないということでコピーライターのわたしが呼ばれたのだ。

こういう仕事はアダプテーション、もしくはローカライゼーションと呼ばれていた。クリエイティブ(デザイン)は米国本社が決めたものを使うから、いかにも翻訳したふうではない、けれどもデザインの中にバチリとはまる日本語を探すという、普通のコピーライティングとはまた違うスキルが必要な仕事だ。

与えられた期限が迫っていた。それこそ寝る間も惜しんで何案も何案も出したけれど、どれもピンとこなくて焦っていた。彼にピクニックに誘われたときも、そんなことするよりコピーを考えたいんだよな、そもそもこの人は人の都合を聞かずに連れ出すような強引なところがあるんだよ、などと心の中は不満たらたらであった。

さすがにわたしの機嫌があまりよくないことに気づいた彼にどうしたのかと聞かれたので、コピーが思い浮かばないのだと答えた。そして、こういうテーマでもともとの英文コピーはこれでと説明した。そしたら、彼が1分もしないうちに、「○○○○○っていうのはどう?」とアイデアを出した。ああああああ、それだ。

次の瞬間、わたしがしたこと、それは大泣き。わたしが何日かけても出てこなかった案をさらりと出されたことが悔しかった。しかも、その案を聞いたとき、これは絶対採用されるとわかった、それくらい完成度が高かった。彼は長らくわたしのコピーを見るコピーディレクターであったのだが、独立してフリーになっても彼なしではコピーライターとしてはイマイチである自分に苛立って泣けた。

ふてくされたわたしは、もうあなたからは独立して自由になりたいのだと彼に言った気がする。そもそもコピーを考えてほしいなんて頼んでないのに勝手に考えたり、そうやっていつもわたしの上に乗っかってくるのが嫌なのだ、と。ただ、その後、実際にまた会わなくなったのか、ただのケンカでまたすぐに会ったのか、そのあたりのことはあんまり覚えていない。なにせ、我々は本当にくっついたり離れたりで、腐れ縁とはこのこと、というような関係だったので。

そのコピーはもちろん採用されて、その年のクリスマスシーズンはなんだかちょっとほろ苦かった。

ぬくもりを、つなごう。というのが、そのコピーであった。調べたら12年も前のことであった。

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ところで、亡くなった夫の終末期のことや、自宅で看取ったこと、その後の自分のグリーフケアなどについてはひとつのテーマとしてブログにしていくことに決めました。「30代で夫を亡くした話」。

これまでは詳細に書く気にはあまりなれなかったのですが昨日突然、がぜん記録として残して公開したいという気持ちになったのでその衝動に従ってみた。これまでは夫はかっこつけだったから、自分の最後はさらされたくないだろうなという気持ちがちょっとあったけど、彼は亡くなるときまで彼らしくかっこよく、死に様は生き様だということを見せてくれたのに、それを隠したほうがいいと思っているのもまた自分の思い込みだったかもな、などと。

ちなみに、今回の投稿、世にも暗いバラの写真は、夫が亡くなった日に、まさかその日が最後になると思っていなかったときに携帯で撮ったものです。

9.3.2019

誕生日の明け方に見た夢は、夫が死んでしまう夢だった。

厳密に言うと「じつは彼はひん死の状態でずっと生きていたのに、わたしは夫は死んだと思って放っておいたために、一人で死なせてしまった」という夢。彼が亡くなってから数年間はしばらくこのパターンの夢を見たが、今回は久しぶりだった。誕生日にその夢を見るとは何のメッセージか。

じつは今夜、カリフォルニアに仕事で来ているという夫の親友と会うのだが、そのために脳内で眠っていた何かが刺激されたのかもしれない。映画監督とかフォトグラファーとか、かつてのわたしの交友関係にはいっぱいいた“クリエイティブ”職の人たち。仲間でいられることがうれしかった憧れた人たち。いまの自分はその人たちと会話して何を感じるのだろう。

同じように夫を亡くした親友が、「これまでと同じものでは埋められない」と言っていて、その通りだなぁ、と改めて夫を亡くしてからの自分の7年強を振り返って思った。夫を思い出させるようなことから逃げて逃げて逃げて、地理的な意味でも、仕事や日常的に付き合う人といった意味でも新天地を探した7年。

でも、気がついた。「同じもので埋められない」というのは、じつは亡くなった人から離れているような言動に見えて、まだまだ近くにいるということでもあったんだ、と。「同じもの」というのは「その人がいたときと同じもの」ということであって、つまり基準はやっぱり「その人がいたとき」だから、その人なしでは成立しない。だから、ちょっと違った形とはいえ、夫の影響はずっとずっとわたしの人生にあったんだと。

彼の影響が、わたしの人生からなくなることはないと思うけれど、逃げ続けた7年から精神的な意味で脱皮するときなのかもしれないなぁと、朝の夢を分析してみる。わたしは、逃げ続けて見つけた場所で、根を張るんだ、と。

最初はただ逃げているうちに辿り着いたあたたかい場所だったかもしれないけれど、ここで根を張ると決めたのは逃げたいからじゃないのだ。自分がそうしたいと決めたんだ。

子犬が我が家にやってきた

亡くなった夫は犬を飼っていた。彼と結婚したことで、その犬はわたしの愛犬にもなった。我々は夫のお父さんの家を二世帯住宅にした2階に暮らしていたから、犬は1階に暮らす夫のお父さんの犬でもあった。

賢く従順で愛嬌のあるラブラドール。

渡米したことで、ラブの世話はお父さん一人にお願いすることになったが、じつをいうと、滞在ステータスが落ち着いたらいつかその子をアメリカに呼び寄せようと当初考えていた。けれど、ステータスが落ち着くことが決まった1年半後に一時帰国したとき、犬とお父さんの間に育った確かな絆を見て、諦めた。

愛犬はそもそもお父さんが好きだったので一緒にいるのはしあわせそうだった。一方、一人暮らしの70代のお父さんにとって大型犬の世話を全部まかされることは、当然楽ではないと思うが、犬のおかげで散歩が日課になったり、犬を通して近所の人との交流ができたりすることは、いい張り合いになっているように見えたし、お父さん自身もそう言った。

何より気立てのいい犬で、夫のトレーニングがすばらしかったこともあり、無駄吠えや引っ張りなどをすることはなく、お父さんを困らせるようなことはまずしない犬なのだ。

これでよかったんだ、と思った。いや、正確にいえば、これでよかったんだと思うようにした。というのも、愛犬のために日本に残るという決断をしなかったことについてはいつもどこかで心に引っかかっていたので。まあ、逆に言えば、お父さんという、犬がなついていて、しかも安心して世話を任せられる人がいたから、アメリカに来れたのだけど。

いずれにしても、わたしには小さな自責の念があって、だから、定期的に日本とスカイプをして、お父さんとお話をしながら、お父さんと愛犬がしあわせそうであることを確認しては「これでよかったのだ」と言い聞かせ、日本の愛犬が元気なうちはわたしは犬は飼わないのだと密かに決めることで、自分を納得させてきた。

ところが、である。かつて14年間育てた愛犬を、3年前に亡くした相方が、ここへきて、犬をほしがるようになった。彼曰く、通りがかりの犬を見つけてははしゃいで犬としゃべりたがるわたしを見ているうちにスイッチが入ったのだという。

「いつか、そのうち」とはぐらかしていたが、数日前、何の雑種かもわからない、いずれは殺処分されてしまう大量の子犬の数匹を救った人が里親を探していることを相方が嗅ぎつけた。その子の顔を見た瞬間、「出会ってしまった」と思ってしまった。そして、我が家に突如、子犬がやってきた。

子犬がきてまだ数日だが、しつけをしたり、トレーニングをしたり、犬を間に挟んで会話をしたりしていると、亡くなった夫と愛犬と暮らしていた日々のことが蘇る。それは、悲しいというのではなくて、あの小さなあたたかなしあわせを、いま、違う人と、新しい犬と再度構築しているという事実に対する感慨である。

違う犬を飼うということはわたしにとってグリーフのプロセスがまたひとつ進んだということでもあるのだと感じた。人はたくましい。

夢の記録

亡くなった夫の誕生日が近い。それと関係あるのかないのか、亡夫の夢を見た。

亡くなった直後は彼はほとんど夢に出てこず、ようやく出てきてくれるようになったかと思うと亡くなる直前の痩せた姿だったりした(もちろんそうじゃないときもあった)。あるいは、わたしは夫のいない生活をしていたけれど、実は彼は病院に閉じ込められっぱなしになっていて、わたしが忘れていただけと気づく、ちょっとした悪夢。

3、4年経つと元気な姿を見ることが増えたが、その場合、夢の中でわたしは「亡くなった彼が今何らかの事情で戻ってきている」と認識していて、「彼がそのことに気づいて消えてしまわないように」と気をつけていることが多くて全力で無邪気に彼と会っていることは少なかった。

まあ、たまたま、そういう夢ばかり記憶に残っている可能性もあるけれど。

今回見たのはこんな夢。

わたしは温泉宿にいるようで、早朝、一人で露天風呂を楽しんでいた。けれど、合宿できているらしい大学生っぽい団体がどかどかやってきて(混浴!)、落ち着かなくなったので露天風呂の奥の方へと移動した。

そこの風呂には中心に人の輪ができていて、何だろうと思ったら、うずしおのうずのようなものがあって、人々がそこで遊んでいるのだった。

そして、そのとき、うずしおの中心で遊んでいたのは、亡くなった夫と、彼の息子(前妻との間)であった。

予期せぬ再会がうれしくて、声をかけたかったのだが、うずまきの周りには他にも人がいて、周りが気になって大声が出せない。亡夫と息子くんはうずしおに夢中で、人の輪の一番外側にいるわたしに気づくはずもない。

ようやく勇気を出して声を出してみたのだが、なんとわたしの口から飛び出したのは息子くんの方の名前。しかも、本名でしっかり呼ばず、なんとなく勝手に略してニックネームにしてた。

何やっているんだ、私…もちろん、その声は人のざわめきにかき消されて夫には届かなかった、というところで目が覚めた。

彼は黄色いTシャツを着ていた(温泉なのに洋服を着ているという不思議は夢だからしょうがない)。その黄色いTシャツは、わたしと知り合った頃からいつも着ていたものだけど、彼が亡くなって、彼の古い友だちが見せてくれた写真の中でも同じTシャツを着ていたことに驚いた。大学生のときから愛用していたみたい。なんという物持ちの良さ。

結局、声は届かず、会話はできなかったのだけど、黒く焼けた顔に黄色のTシャツ、そしてうずしおではしゃいでいる笑顔を見られて、うれしかった。

あまりにうれしかったので、目が覚めた後、もう一回会えないかと思って二度寝したくらい。

二度寝ではわたしは彼の居場所をPCを駆使して探している夢を見た。

夢でも夫に会えるのはうれしくて、こうして記録を残しておきたくなる。わたしはきっとずっと彼のことが好き。

命日反応

命日反応というのか、夫を亡くした後、この時期は、なぜか元気が出ない。というか、よく考えればもともと2月は比較的元気の出ないことが多い月であった。だから、夫の命日が2月になったことで、命日反応といういい言い訳をしているだけかもしれない。

それでも今年は軽やかだわー、命日反応が久しくないわー、と思っていたら、それは突然、当日に、きた。風邪なのか、風邪でないのか、雨のせいか、気圧のせいか、新月が関係あるのか、とにかく体が重くてダルい。気分が晴れない。

彼と過ごした最後の1日が何度も脳内にリピートされる。

あれができたかも、これができたかも、という罪悪感はない。彼がいまここにいれば、という気持ちもない。でも、ただ、ひたすら、具合が悪い。

そして、これを書いているわたしは、この後、この文章を、前向きな締め言葉で終えることができそうにない。

いつも思うのだけど、闘病する人や、それを見守り看病する人、見守ったあげくに喪失を体験するまでの物語はフィクションでもノンフィクションでも多くあるのに、誰かを亡くした後、その喪失から立ち直って元気になった人を追っかける物語は少なくないか?

わたしは、最愛の人を亡くした人たちが、どのようにして、その喪失を自分の人生に織り込み、新しい人生を織り始めたのか、その後の物語が知りたい。

その後、生き残った彼女は、末永くしあわせに暮らしましたとさ、という物語を読みたい。

君が書けばいいじゃん、と夫から言われる気がする。

生き残った彼女は、その後、たくましく、ずぶとく、末永く、楽しく、しあわせに生き延びましたとさ。

私は、そういう物語を、選ぶ。夫がそのほうが喜ぶに違いないなんてきれいごとは書かない。誰でもない、自分のために、選ぶ。

人生の最後に思い出したいシーン

亡くなった夫は是枝裕和監督の『ワンダフルライフ』が好きだった。死んだ後、生前に体験した思い出を一つだけ再体験できるという映画で、夫とは、まだ彼が元気で病気になるなんてまったく思っていなかった頃から、思い出すならどのシーンだろうという話をお酒を飲みながらよくした。

長らくわたしのナンバーワンだったシーンは、まだ夫と結婚する前、彼がウクレレでアメージンググレースを弾いてくれたことであった。その日、我々は静かに別れ話をして、互いに今日で会うのは最後だと決めた。その後にどういう経緯で彼がウクレレを弾くことになったのかは思い出せないのだが、ウクレレの独特の音色と自分の心境がぴったりと重なって、心に染みた。暑い夏の午後で、開け放った窓から、通りを走る車の音が聞こえたことまで思い出せる。

その後、紆余曲折あって我々は再会して結婚した。そのために、あの日のアメージンググレースはナンバーワンに思い出したいことというほどの重みはなくなった。

結婚後にわたしの思い出したいシーン、ナンバーワンの座に着いたのは、夫と二人で波待ちをして浮かんでいた海で、ドンと大きな花火が花開いた瞬間だ。

鎌倉花火大会の花火。その日、花火大会があることは我々の頭になかったので、海の上で見ることになったのはちょっとしたサプライズだった。空はまだピンク色で、その色を受けて海もピンクに染まっていて、耳元からはちゃぷちゃぷと水の音がして、この世のものとは思えないほど美しい時間であった。

夫が亡くなってからしばらくは、彼の人生最後の一日が、わたしがもう一度体験したいことのナンバーワンとなった。その日いろいろあって、夕方になって、「もし今日が最後の一日だとしたら映画になるくらい美しいわ」と思った瞬間に、「あ、これが最後の一日だったんだ」と気付いた。いや、わかった。なにせ美学がある人だったので、そういう、かっこいい最後を実行する人だ、と。

その後も、何かあれば、「このシーンも思い出したいシーンの候補だな」と時折思っていたものだが、ここ最近はすっかり忘れていた。忘れていたことを思い出したのは夫の命日が近いからかもしれない。

あくまでもわたしは、だけど、「これは思い出したいシーンだな」という瞬間のの数が多いほど、人生は豊かになると思う。

別に毎日にいちいちドラマチックなイベントがある必要はない。ただ、感性を研ぎすませていればいい。今日の太陽、海の表情、風の香り、友だちとのチャット、相方の体温や匂い…日々の、当たり前の、小さな出来事にいちいち意識的でありたい。そうすると、思い出したいシーンは結構たくさん見つかるものだ。

死別の悲しみ

我ながら狭量だと感じているが、死別の悲しみを
「乗り越えた」と表現することが好きじゃない。

夫を亡くしてから4年間くらいは
思いがあふれて涙が止まらなくなることが
年に数回あったけれど、
7年を迎える今は
涙にくれることはほとんどない。

でも、思い出す瞬間が一瞬もなかったという日は
この7年間一度もなかったと断言できる。

泣くわけじゃないけど
彼が生きていたら今どんな47歳だったかなとか、
彼が生きていたらわたしは一緒に何をしていたかなとか、
今でも時々考えることはある。

彼は憧れの広告クリエーターで、
いつもインスピレーションをくれる存在でもあったので、
原稿の方向が固まらないとか、
企画のアイデアが出ないとか、
仕事で行き詰まることがあったときも
必ず思い出してしまう。

「乗り越えた」というと、何か高い壁があって、
それを越えて向こう側に行ったようなイメージだけど、
今のわたしが元気になったのは
壁を越えて向こう側に行ったからじゃない。

壁は越えられないと、諦めて、受け入れた、
というのが近い。

夫は死んで、彼と暮らす未来は
もう今生にはないことを認めた。

…そうか、もう今生で彼と会うことは二度とないのか。
こうやって言葉にして改めて突きつけられると
やっぱりしんみりと、寂しい。

でも、いま、わたしが日々いつも
寂しがっているかというとそうでもない。

喪失の痛みと寂しさ、悲しみという壁はそのまんまで、
でも壁には目をやらず、壁のこっち側で残りの人生を
どう楽しく生きるかに目を向けることができるようになった。

痛みや寂しさや悲しみと折り合いをつけて
それはそれ、これはこれ、で暮らすことができるようになった。

もしかしたらそれを人は「乗り越えた」というのかもしれない。
けれど、自分としては「うまく共存できるようになった」
というのがしっくりくるかな。

今日も読んでくれてありがとうございます。

どういうときにどういう言葉を使うかは
人それぞれ違うこともよくわかっているから、
「乗り越えたね」と言われても
もちろん怒ったり、腹立てたりはしないけれど。