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寝ても覚めても動作学(笑)

だいたい月末に発生する恒例(?)の振り返り。 note.comのマガジン「動作学というレンズを通して」を公開し始めたのは2022年に入ってからだが、連載10回が過ぎた今、当初思っていたより大きな反響をいただいていていて、そのことがとても嬉しい。 今日はその結果としての最近の私の変化について。 noteのマガジンのおかげで、「これ、動作学的にはどう判断すればいいの?」と、ライターである私が質問を受ける機会がものすごく増えた。 もちろん、私は動作学を学んでいるだけの身なので、「動作学ではこうだよ」と偉そうに何かを教えるということはない(できない)のだが、「私なら動作学で学んでいることをベースにして、こう考えてこうする」という内容なら伝えることはできる。 ただ、残念であり面白くもあるのは、動作学的には、ほとんど全ての場合において、「その時の、その状況に身を置いたときの自分の感覚を感じる→行動する」というのが私の答えになる(聞かれ方、質問の趣旨によってはこの限りではないけれど)ことだ。なので、たくさんいただく質問に対する回答も、その考え方を伝えた上で、「だから、その状況に身を置いてみないことには私ならどうするかはわからない」となってしまう。 これ、裏を返すと、「なので、あなたもあなたがその状況で感じたことを実行すればいい」でもある。 質問してくださった方は肩透かしを喰らったように感じるだろうな、とは思うのだけど、私はその質問を受けたというその時の状況で私がこう回答したいと感じたことを伝えるのが最善であると、これまた動作学的にそう考えているので、その回答を出した後、その次に起きる出来事(たとえば質問してくれた人の反応など)は気にしないというか、「こうあってほしい」という期待はほとんどないまま行動ができる。 そういった最近の自分の変化を振り返って、「っていうか、これ、『引き寄せの法則ーエイブラハムとの対話』や『神との対話』シリーズでエイブラハムなり神と名乗るものだったりがずっと言ってることじゃん」とも気づいた。 動作学に傾倒したことで、結果的に、あの時、スピリチュアルに学んだことを、実践できているようになった自分がいる、と。 結果を期待しないから行動しやすくなったし、何より、行動というのは自分が何をどう感じているかを自分自身や人に対して表現(表明)することだと捉えるようになったから、自分の感覚に基づいて行動するということへの恐れが激減した。 それぞれの人が自分を通してしか世界を見られない。だから、世界を純粋に見るためには自分のエゴとやらを消さねばならないと昔の私は長いこと思っていた。自分の感じることはエゴなのではないか、と。いや、そうはっきり自覚があったわけじゃないけれど、以前の私が目指していたのは世界を純粋に見るために自分の感じることを否定することだったので、ときどき苦しくなったんだろうなと分析している。 今は、自分も、その世界を構成する大切な一粒だから(たとえ小さかったとしてもその一部があるのとないのとでは世界は違ってくるから)、自分というものを消そうとしながら世界を見ることは、もうその時点で純粋に世界を見ていることにはならなくなる、と考えるようになった。私という世界の構成部員を消して見たら、私のいる世界を見ていることにはならなくなってしまう、と。 あわわわわ、哲学的になってしまった…兎にも角にも、「私は私を通して世界を見ている」ということを自覚すると、他の人がその人を通して世界を見ていることも尊重できるし、互いに尊重しあった上で、それぞれの見ている世界を語る(アウトプットする)、そのアウトプットをそれそれがインプットしてまたそれぞれのアウトプットが変わる、その繰り返しで世界が良くなっていけばいいのだと考えるようになり、自分の考えを人前でだいぶ語れるようになったことが自分なりの進化。 以前は、正解を語らないと、とか、正解じゃないって突っ込まれた時に答えられるように理論武装しておかないと、とか、そういうので忙しくて、そんなのできないから、じゃあ語らない、となっていたんだなってこともわかる。 だから議論の場が嫌いだったし、討論的な報道番組を見るのも苦手だったけど、今はむしろ好きになっている自分に自分が驚くわ。なんなら可能な限りの多くの視点&意見をインプットしたいと思うようにさえなっていて、それを意図したわけじゃないけれどこれまでの過程で結果的に英語の情報ソースをインプットできる自分になっているということにも神の采配というか、世界のシステムの完璧さを感じて陶酔しそう。 ともあれ、そんなこんなでますます動作学にハマる2022年春。 動作学にハマっているのは私だけでないので、おそらくそう遠くない未来に他の方の著作としても動作学の名前を目にすることになるのではと思います。その時代時代に注目のキーワードというのがあると思うけれど、動作学はこれから数年の間の注目キーワードの大穴であると、個人的には思っております。当たらなくてもいいんですけど。

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動作学マガジン【08】【09】アップしています

おかげさまで忙しく過ごしていて、お知らせをすっかり失念していました。noteで連載しているマガジン「動作学というレンズを通して」の08、09、アップされています。 【08】自分の価値観に従って生きる 【09】自分の感性を信じる ところで、最近、ニール・ドナルド・ウォルシュ著『神との対話』(1995)と、そのシリーズを再び読み始めました。 以前読んだはずなのだけど、以前はきっとほとんど理解できていなかったんじゃないかと思うほど、内容を覚えていませんでした。同じことが『奇跡のコース』にも言えそうです。読んだはずだけど、今、内容を思い出せと言われたらまったく出てきません(苦笑)。ちなみに、エイブラハムの引き寄せ関連はアメリカの本棚にあって何度も読んだので、それについては内容をかなり覚えていると自信を持っています。 話がそれましたが、『神の対話』。そのようにほとんど覚えていないにもかかわらず、今回、まるでこれまで自分が考えて頑張って実践してきたことの答え合わせをしているような気持ちで再読しています。 今、考えて実践していることはそれで良いのだと後押しをしてもらえるような感覚というか。読書に限りませんが、そういう経験って、皆さんも多かれ少なかれあるんじゃないでしょうか。 もう一つ、読んだことはあるのだけど内容が思い出せない、というか、そもそも理解も難しかったものに、アリス・ベイリーの秘教関連の本があります。ほとんどの本を日本に置いてきたけれど、アリス・ベイリーの秘境関連は持っているものは全てアメリカに持ってきています。再読する時がくるかな? その時には、今回の『神との対話』のように、答え合わせをするように読めたら最高ですけど、そうなるのは今生ではないような気もする(笑)。 そのくらい秘教の本は難しいわけですが、同じ理由で、この秘教シリーズが一番奥深そうだとも感じています。 ただ、今、現時点では、私は、より多くの人に伝わるように平易な言葉にしたい、つまり私が理解できていることを伝えたい、という欲求が強くて、だから動作学という言葉で伝えているし、動作学の言葉で伝えたいんだろうなぁ(自分は)、とものすごく納得もしているのでした。

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動作学note 「【06】自分を満たすとはどういうことか」をアップしました

動作学noteマガジン「動作学というレンズを通して」の 06をアップしました。トピックは自分を満たすとはどういうことか、です(記事はこちら)。 私はこの「自分を満たす」の方法を長らく間違えていたんだなぁ。 ところで、もはや25年以上(!)にもなったライター&コピライターとしてのキャリアの中で、私がこのように自分の手がけたものを「見て!読んで!」と皆さんにお伝えできるようになったのは2014年にアメリカに来て以降です。 それまでの私は、さまざまな仕事を、「これは本当に私がやりたいことではない」と感じながら取り組んできていました。ライターの仕事なら編集者の意に沿うことを第一に、コピーライターの仕事ならクリエイティブディレクターや広告主の希望に応えることを第一にしているうちに、自分が消えてしまって、結果、どの仕事も、完成した時に、「これは自分がやった!」と自信を持って言えるものにはならなかったんです。 でも、それって、逃げていただけだ、と気づきました。忘れもしない2013年。前夫が亡くなった後、傷心で訪れたカリフォルニアはシャスタで、その気づきは訪れました。 逃げていたという表現はやや自虐的ですが、つまりは自己防衛だったと気づいたんです。 「これは本当に自分がやりたいことではない」ということをやっていれば、やったことがどんなに批判されても、評価されなくても、私のせいではないと思えます。だって、私は誰かのやりたいことを形にしただけなんだから。 私は、そのくらい、自己肯定感が低かったんです。自分の存在そのものが肯定できていないから、何かをやることで評価を得ようとしていたんですね。 その場合、「私のやること」=「私自身」になってしまっているから、私のやった仕事を否定されることは私の存在を否定されることに等しいわけです。そうなったらとても立ち直れないほど怖いから、「私がやりたいことじゃない」ということをやることによって、批判されても、「私じゃないし」と言えるようなことばかりしていたわけです。 いやはや、これに気づいた時の虚無感ったらなかったですよ。今までの人生、全部が自分じゃなかったんじゃないか…一体今まで何をしていたんだ…と。 亡くなった前夫は、自身がした仕事を皆によく宣伝していたけれど、あれは、彼が自分の仕事だと思って本気で取り組んでいたからなのだなということにも気づきました。この先の人生、前夫のように生きたい、彼のような仕事をしたい、と思いました。 と、そこまではシャスタで思えたことなのですが、では、何がしたいのか、自分が本気で取り組めることってなんなのか、ちっともわからず、私は途方に暮れました。その時、シャスタを案内してくれていた友が、芋虫が蝶になる時に蛹になるが、蛹の中で芋虫は姿形なくなるくらいに溶けるのだと教えてくれました。それが「変容」だと。今までの自分の価値観が全部壊れてしまって、自分だと思っていたものがなくなってしまった今はきっとあなたは蛹になったんだ、と。 あれから9年(!)。蛹が蝶になったというか、したいことを見つけて、本気で取り組めている、そのことが、ただただ本当に嬉しいです。嬉しいがあまり、同じことを何度も書いてしまっていますが、明るい方をめざして、光を見つけて、開いていった数々の扉の中で、最後の最後、ここさえわかっていたらもう路頭に迷わないだろうというくらいの光の扉であったのが私にとっての動作学で、みんながみんなそうではないことはわかっているけれども、私と同じような誰かに届くといいなと心から願っており、それゆえにまたしつこくお知らせすると思います。

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Stay Salty March 2022アップされました

コラムを寄稿しているウェブマガジン、STAY SALTYのMarch 2022号がアップされました! トップページはこちら コラム「カリフォルニアの風」はこちら さて、ここからは近況報告。 今年からフリーランスになったといっても、いろいろ仕事を取るというよりは、もう話が進んでいるプロジェクト3つについて、全力投球しよう、というのが私の2022年の目標です。 そのうちのひとつが動作学で、もうひとつがNumun Naturals CAのCBDオイル、そして、いよいよもうひとつのプロジェクトも動き始めました。 今、それについてキャッチコピーなり、あるいは関わるみんなにとっての共有の指針となるコンセプトワードなりを出したいなと思っていて、頭の中が常にアクティブ。 言い方を変えると、常に悶々としている状態とも言えるんですが、これが、なんだろう、すごく楽しいのです。 2002年頃、雑誌のライターから広告のコピーライターの仕事へとシフトしたとき、その、たった一言を生みだすために悶々とするということにとんでもなく面白さを感じたんだったということを思い出してもいます。 いい言葉を見つけられるといいなぁ。というか、絶対見つけよう。 若いときは、これがプレッシャーになって疲弊していたわけですが、今は、自分の心身を最善の状態にすればきっとなんとかなると思えるようになったし、なんなら私でなくても携わっている誰かからいい言葉が出てくるのでもいいと心底思えます。 昔は、自分でない他の人がいい言葉を出したら、自分がコピーライターとしてこのプロジェクトに参加した意味がないと思って自分を責めていました。でも、今は、動作学的に物事を見られるので、誰かがいい言葉を出したとしたら、そのプロジェクトに関わっていた私もちゃんとその言葉を引き出すのに役立っていたはずだと思えます。 知識を身につけることは、力になる。 年齢を重ねるほど、それを実感します。 じつは昨日で、渡米して丸8年でした。 8年前、一人でロサンゼルス空港に降り立ったときの状況、心境など思い出すと、その8年後の今の私は「上出来」「かなりよくがんばりました」です。 今週末は小さなお祝いを、自分にしてあげよう、なんて考えています。

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01.14.2020

魂の計画というのは、段階的に展開するもので、次の段階を進むために、ときに魂は「ダミーの情熱」を使って自分(肉体の自分)を動かすことがあると常々感じている。たとえば、アメリカに、カリフォルニアに、来ることになったのは、聖地シャスタが大好きになって、シャスタに通いたかったから。しかし、当時望んでいたサンフランシスコ(シャスタに近い)にはビザのサポートまでしてくれる募集はなく、結果的にロサンゼルスになった。と思ったら、すぐにサンディエゴに異動になった。シャスタからさらに離れるが、そのときはシャスタと同じくらいサーフィンへの情熱も戻っていたので基本的にはわくわくして行った。そして執着とか中毒と言われてもいいくらいサーフィンにハマりまくった。ところが、ここにきて、すとんと力が抜けた(いい意味)。シャスタもサーフィンもいまも好きだし、シャスタには通い続けるし、サーフィンも続けるけど、それらに熱中しているような形をとって、じつは自分の中に表面に見えているのとはまた違う、より本来の望みの近い、別の種をまいていたような気がする最近。それらが芽を出し始めるぞ、というような感覚を先取りしてまたわくわく。人生というのは、どんどん「自分」になっていく旅路であるなぁ。

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12.26.2019

 マーティン・スコセッシ監督のNetflix公開作品、『The Irishman』を見た。主演はロバート・デ・ニーロとアル・パチーノ。このような大作が、Netflix配信ということに時代の変化を感じずにいられない。映画というのは何をもって映画なんだろう。そんな問いも出てくるが、回答は出なさそうだし、ただ言いたいだけでした(笑)。  さて、映画『The Irishman』は、いまは高齢者施設にいる殺し屋フランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)の回想という形で語られる。回想される過去の時間軸が2つあって、そのうえ、いまの老人になったフランクもちょいちょい挿入されるので、最初はなかなか理解ができなかった(英語で見たせいもある)。でも、だからといってつまらないということはなく、3時間30分の長編ながら飽きることなくぐいぐいと引き込まれた。  この映画は、激動のアメリカ史として見られるし、マフィア映画としても見られるし、いろいろな見方があると思うが、わたしは、フランク・シーランという一人の男の人生物語として面白かった。家族を守るため、あるいは、誰かとの絆を守るため、裏社会を必死に生きたフランクだけど、高齢になったいま、共に生きた関係者は全員先立ち、自分がしてきたことを知る人はいないし、してきたことを「すばらしいことだ」と言ってくれる人も、「仕方のなかったことだ」と言ってくれる人もいない。なんだかとても切ないラストである。  マーティン・スコセッシが77歳ということを鑑みると、ますます、これは老いというか、自分のしてきたことは人生の最後にどう見えるのか、あるいは、自分のしてきたことが人生の最後にどう影響するのか、そんなことを伝えているように思えてならなかった。何をしても、しなくても、人は老い、必ずいつかその人生は終わるのだ。  ところで、この映画を見ることにしたきっかけは、わたしが担当している映画連載コラムの著者、映画史研究家の宮尾大輔さんが解説を書いてくれたからだった。これまで、宮尾さんが解説を書いてくれた映画を「見たい」と思っても、忙しさで忙殺されているうちに次の原稿がくるということが多かったので、2020年は見たいと思ったものはとっとと見るの精神でいきたいと思っている。わたしの中でプチブームの5秒ルールを採用する範囲を、2020年は広げようかと。

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