yoga & healing with Satoko

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傷を見るのは、自分を責めないため

6〜9分

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「うまい!」

ある俳優さんがYouTubeで、息子さんの作った料理を食べて笑顔を見せました。息子さんのお顔はモザイクで隠されていたけれど、きっと嬉しそうにはにかんだだろうことが想像できました。

息子さんは中一。家庭科の授業で生姜焼きを習って、家でも作りたいと言ったのだそう。お父さんである俳優は、買い出しから調理まで、息子さんの判断と決定を尊重しながらフォローに徹していて、見ているあいだ、わたしの顔は緩んでいました。

でも同時に、ちくりと胸が疼いてもいました。

わたしが小学生のころ、同じように家庭科で習ったものを作りたいと言ったことがありました。ちょうど父の日だったので、プレゼントのつもりでした。

幼いわたしはきっと、あの俳優のお父さんのような「おお、楽しみ!」という反応を期待していたと思います。でも、母はちょっと迷惑そうでした。

それでもキッチンに立つと、「で?次は?」と急かされ、明らかに母の調理の邪魔をしていると思い知らされました。完成すると、母は「たまに気が向いたときだけ料理するのでよければ、そんな楽なことはない」と言いました。

大人になって、人の家のキッチンに手伝いに入ることがひどく苦手であることを自覚したのですが、もとをたどればあの出来事が影響していたかもしれません。

子どものときの小さな傷というのはこんなふうに、知らないうちに大人になった自分のふるまいに影を落としていることがあります。

わたしがそんな傷の話をわざわざ持ち出すのは母を責めるためではありません。「その経験があるんだったら仕方ない」と開き直るためでもありません。ただ、自分をもっと理解してあげるためにやっています。

よその家のキッチンでうまく振る舞えないという部分だけ見ると、「なんでそんな簡単なことができないのだ」と自分を責めたくなります。でも、そうなった理由なり原因なりが背後には必ずあって、そこに気づいて認めてあげると、「そりゃ、悲しかったし、だからどう振る舞うかに過剰になるのは仕方ないよね」と自分に寄り添えるようになります。

寄り添ったうえで、自分を変えていこうとするのと、「できていないから変えなきゃ」というふうに変わろうとするのでは中身が全然違ってくるのです。そして、後者の変わり方は根本の痛みに寄り添えていないから、また戻ってしまう、もしくは違うところで同じパターンが出るということになりやすい。

IHセッションを何度か受けていくと、忘れていた幼い頃の傷に出会うことがあります。でも、それはその悲しみを再体験するためではなく、ましてや「だからしょうがない」と諦めるためでもなく、生命が本来の輝きを取り戻すためなんだと思っています。

傷を思い出すのは一瞬痛みを伴いますが、もうそれを感じても大丈夫というものしか出てこない、ということもセッションを重ねるほどに実感します。

自分はこういう人だ、と思っているその自分は、じつはこれまでの経験から身につけてしまった自分。その奥深くに、まっさらな、生命そのものの輝きである自分がいるとしたら。

その奥深い自分の囁きに耳を澄ませてみたいと思ったら、IHセッションがお役に立てるかもしれません。

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